2009年9月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ 必死なドラマー君
■                          field 洲崎一彦
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 ある日の練習会で、異色な参加者がやって来た。彼はロックドラマーで今やっているバンドリーダーからリズムが固いと日頃からモンクを言われていた。その彼がどこでどうして何を間違ったか、fieldアイ研という所で毎週月曜日の夜に「ビート」の講習会をしているというウワサを聞いたらしいのだ。fieldアイ研の「アイ」を何と思ったのか?と突っ込んでもしようがない。彼はラディックのスネアをかついでやって来た。

 彼は一瞬まわりの空気を察知して妙な表情はしていたのだが、彼の言う「リズムが固い」というのを何とかしたい、何でもいいからヒントになるものが得られればいい、という切なる発言は逆に私の好奇心をひどくくすぐったのだった。

 彼は大学生で、つい最近まで大学の軽音に属しながらプロのドラマーのレッスンを受け、しかし、バンド経験は乏しく、今組んでいるバンドがほとんど初めてやるバンドだという。バンドでドラムを叩くよりもメトロノームに合わせて基礎練習をやっていた時間の方が1000倍も長かったという、これはこれでバランスの悪い経験をしている。

 なるほど、こんな彼がバンドリーダーに「リズムが固い」と言われたのね。いい感じである。

 さて、この練習会には練習会の現在の進行状況というものが一応あるにはあるのだが、彼の言う「リズムが固い」という問題は、ここのレギュラーメンバーにとっても、ここでいろいろやっている事への良いヒントになると思って、この日の練習会の前半はモロにこの彼に的を絞って話を進めることにしたのだった。

 レギュラーメンバーにとっては、今まで何度も聞かされた話や、聴かされた音楽や、練習が重複することも多いだろうが、ジャンルの違う、自分たちとは異なった音楽環境にいる彼の反応のひとつひとつが良い刺激にもなろうし、復習にもなるだろうと考えた。

 君の所のバンドリーダーが言う「リズムが固い」というのが具体的にどういう感じなのかは私にはわからないけれど、とにかく、今からキミのヨコノリに対する感覚をみてみます、と言って彼に例のタマゴシェイカーを渡す。そして、ディスコミュージック(シックの〈バーンハード〉)をかけてこれに合わせて振ってもらう。

 キミが日々スティックを握りしめてドラムの基本練習を黙々と続けて来たのなら、ちょっと考えてみて欲しいのですが、このシェイカーというものは打楽器としてどこかおかしくないですか?

 例えば、キミがスティックを振ってドラムの皮に当てて音を出す時の事をリアルに思い浮かべて、今このシェイカーを振って音を出す時の感じの違和感を探ってほしいのです。シェイカーを持った手を振って音を出す、この振る動作はスティックを振る動作に対応しますね。すると、スティックが皮にヒットして音が出る感覚とシェイカーの中の粒がシェイカーの内壁に当たって音が出る感覚は明らかに違うでしょう?

 遅れますね。

 その通りです。遅れるなんて打楽器として嫌でしょう?

 なるほど、嫌ですね。 

 では、今度は、このシェイカーの中の粒の動きを想像しながら、そのことに集中しながら振ってみてください。

 ん?

 粒がシェイカーの内壁に当たって音が出る。その音が出る時だけに集中するのと感じが違うでしょう?

 うまく拍を合わせるのが難しくなってきますね。

 なるほど、キミの場合は基礎練のエキスパートだからね、拍の方が気になるんですね。ではまず、粒が内壁に当たる時の音に集中して拍をそろえて、それからその粒の動きに集中してみてください。

 ここでは、その粒が内壁に当たる音のみの世界がタテ、粒の動きがヨコという事になります。つまり、タテだけだと如何に拍が合っていても「固い」ということになりますね。ヨコを感じることによってそれはだんだんしなやかになりますね。

 それは、クラッシュシンバルをわずかに後ろに叩くとか、バスドラムをわずかに前に踏むとか言う話に通じるのですか?

 いやいや、それは、あくまでドラムセットという楽器を操作する手順の要領のひとつであって、全体のビートには直接関係ないと考えておいた方がキミのようなタイプには良いと思います。ただ、あくまでそれも拍にジャストではない、あるいは必ずしもジャストでなくても良いという結果的運動の点では同じです。が、目的と発想は違うものです。

 つまり、ある曲をやることになった。そのドラムを叩く。それで、キミはどこが一番気持ちいいのかという事が大きいのです。例えば、間奏に入る直前のここ!このスネアの1発がどうしようもなく気持ちいいというような事があるでしょう?では、そこをどう叩きますか? 打点としてそこがジャストより前後わずかにずれているというような類の分析もあるでしょう、また、ではそれをそのように再現しようと言う努力もあるでしょう。これは運動分析とその手順という目的と発想です。しかし、そういう手順に頭が行ってしまうとその運動を再現しているつもりでも、結局、流れるビートも流れない。するとそれはまた「固い」ということになりますね。

 重要なのはキミ自身の内部の問題です。衝動的な何かが反映されなければビートは躍動することができません。例えば、野球に例えると打点は同じ位置にあるとして、同じボールをバントするのと、ホームランにするのと明らかに打つ方の感じ方は違いますよね。ボールがバットに当たるその位置、点は同じだとしてもホームランにしようと思ったら思いっきり振りかぶって反動をつけて力一杯振ってバットの芯でボールを弾き返すわけですね。これで、ポテポテと転がるバントに比べてボールは100m以上飛んでいく。どうですか?ホームランは気持ちいいでしょう? スカッとするでしょう?

 なので、ある楽曲の中で自分がここ!と決めた所ではホームランを打ちたいですよね? そういう欲求への渇望がなければならないのです。例えば、コレをこういう風な手順で叩く運動技術が自分にあるか?なければまずその運動技術をトレーニングしよう。そしてこれを再現しよう、という手順ではビートは生きてきません。 ここのこの気持ち良さを何とかして現したい。という、やむにやまれぬその欲望というか渇望感でもってとにかくがむしゃらに叩いてみる。動機がその渇望感から出ているものなら、それに必要な運動技術は知らない間に身に付きます。そうやってビートが生きてくるんです。

 ビートが生きてくると、もう誰もキミのドラムを固いなんて言わないでしょう。

 彼への集中攻撃はこれぐらいにして、後半はいつものように、アイリッシュリールの練習に移ったのだが、ドラマーの彼も手持ちぶさたでは申し訳ないので持参したスネアドラムにサイレンサーパッドを乗せて叩いてもらうことにした。

 リールやジグが何だかわからなくても良いので、拍さえキープしてくれれば何叩いても良いよ、と言う。すると、彼は普通にトコトコと4連譜を連打するだけだったので、キミなら拍をキープしながらもっと色々な事ができるでしょう? 敢えて他の演奏者の邪魔をする気持ちで思いっきりやってみてくれと指示してみる。

 面白いことに、レギュラーメンバーの諸君たちは、この拍は合ってるが明らかに邪魔な彼のドラムがヒートアップして来るのに比例してだんだんとかっちり拍感の合った演奏に変化して行くのだった。

 これはいったいどういう現象なのだろうか。邪魔が入って初めて自分の拍感を意識せねばならなくなったと言うことなのだろうか。この現象は今後何かのヒントになるかもしれない。

 以上のような不思議な副産物も得て、この日の珍客乱入の練習会は幕を閉じたのであった。

 翌日、そのドラマーの彼がひょこっと店にやって来た。ああ、キミか。で、夕べはどうやった? 少しは何かのヒントは得られたかな?

 面白かったです。今、シェイカーを買おうと思ってるところです。

 ちなみに、ウチのアイリッシュ音楽やってる連中は、キミから見たらどんな風に見えた?

 そうですね。はっきり言っていいですか? 皆さん、拍感がすごく弱いですね。それと、雰囲気の問題かもしれませんが、皆さんに必死なものを全然感じなかったです。自分なんて本当に必死でしたから。

 そうなのだ、彼の話を聞けば、彼は軽音では1回生のころから先輩にヘタクソ!ヘタクソ!と罵倒され続け、何糞!という気持ちでプロのドラムレッスンの門をたたき、ここまで必死にやって来たということなのだ。

 それに引き替え、アイ研練習会の諸君は今までかつて誰かにヘタクソ!と罵倒された経験など無いだろうと思う。また、この練習会でも、ある課題が出来ても出来なくてもそれをヘタクソ!と罵倒したことは無いしそんな雰囲気がそもそも初めから無い。

 つまり、彼のことを思につれ、ウチはアイ研メンバーのことをつくづく甘やかしてしまっているのだなあと痛感するものがあった。

 彼はほんの1時間あまり練習会に参加しただけでその翌日にはもうシェイカーを買おうとしている。わがアイ研メンバーは半年以上前から、200円なんだから自分のシェイカーを買うように、と何度も言い続けても、未だに持っていない人がいる。

 アイ研練習会が、なかなか成果の見えない泥沼だと嘆く前に、彼の必死さこそ見習わなければならないのではないだろうか。

 このところ、練習会に対して少々及び腰だった自分に対する反省をこめて、意を新たにするのでありました。

<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・厳しくするというとこっちも手を抜けないから実はちょっとしんどかったりもする。>

               *****

 

 

 

2009年8月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ 真夏のアンサンブルの怪
■                          field 洲崎一彦
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 さて、さて、「怪」などと言っても、夏だから怪談というわけではありません。field では毎年8月の初めにパーティーを開催します。field が pub になる以前の cafe 時代の創立が87年8月だったことから pub 以前のアニバーサリーパーティーの習慣が残ったものです。

 field は恒例のパーティーが年5回あって、その内容のメインはfieldアイ研が中心となり、3時間延々と続く色々なユニットのライブステージなのですが、その内のこの夏のパーティーは学生さん達は前期試験中あるいは試験が終わっ
て夏休みに入った瞬間であったり、各地の夏フェスや夏祭り、花火大会などと重なるケースが多く、このライブステージの出演希望者は、例年あまり多く集まらないのがここ数年の傾向でした。ハロウウィンやクリスマスのパーティーでは出演希望が殺到し、とても3時間には納まらないので何組かはお断りする結果になるのですが、夏はぜんぜん大丈夫、という年が続いていました。

 そういう事情もあって、今年の夏パーティーのステージには、わがアイ研練習会のメンバーにユニットを組んでもらって何組かこのステージで演奏してもらうことにしました。全員ではないので、これは練習会の課題というほどのことではありませんが、まあ、ここで組んだユニットのメンバーはそれなりに各自練習をするだろうし、一連の経験がまた練習会にフィードバックするだろうという期待をこめての企画です。

 そういうユニットのひとつにジグしかやらないというテーマのちょっと面白いユニットが出来ました。メンバーはジグが大好きなフルートのB君、大学のサークルではフォルクローレなども演奏しているホイッスルのD君、昨年はギター初心者というイメージが強かったが今年になって念願のマイギターを手に入れてから練習の虫になったギターのRさん、の3人です。

 彼らがパーティー2週間ほど前から精力的に練習をしているというウワサは聞こえていたので、それはそれは頼もしいことよ、と感心しておったのですが、いざ、パーティー前日の夜になってB君から一本の電話がかかって来たのでした。

 あのう、ちょっと明日のパーティーユニットに関して相談したいことがありまして。僕らけっこう集まって練習してたのですが、練習すればするほど合わないんです。前日になって何なんですがちょっとアドバイスして欲しいと思いまして・・・・

 申し訳ないけど、私はこの電話に大笑いしてしまいました。何故かというと、彼の口振りからは本当にこの2週間、ああでもないこうでもないと3人が頭つき合わせて何とか合わせようと頑張っていた様子が伝わって来ましたし、それが、やればやるほどダメになるって、まるで新喜劇のオチではありませんか。おまけに彼の口調は至って深刻ときたら。

 聞けば、フルートとギター、ホイッスルとギターというふうに別々にやれば合うのが、3人一緒にやるとフルートとホイッスルのどちらかが止まってしまうだなんて!

 そこまでやったのなら、フルートとホイッスルの2人でやってみたか?と聞くと、
 もちろんやりました。やりましたが、その組み合わせでは始まった途端にどちらかがもう吹けなくなるんです、って。そんな事があるんですか?
 というような奇怪なお話なのでした。

 あまりに奇怪すぎて、電話口での私は笑いを抑えることができません。彼の口調が深刻になればなるほど、私は笑いがこみ上げてくる。
 ごめんごめん。それはいっぺん見せてもらわんと何とも言えないなあ〜。明日のパーティーの前にでも3人でスタジオに来れないか?

 と、笑いをこらえながらなんとか話をまとめました。

 うーん。話だけ聞くとまったくもって奇怪。このフルートのB君とホイッスルのD君は共に練習会に来ていて、その普段の練習会でみんなで音を出す時とかは普通に吹いていたではありませんか。何の違和感もなくセッションしていたではありませんか。また、以前の練習会で何人か毎にグループ分けをしてひとつの課題を演奏した時に、たまたまこのユニットの3人で組んだ時のジグがとても面白かった。君ら3人でバンド組んだら?なんて、私、その時言ってたのです。それもきっかけとなったユニットですから。

 それが、3人が自主的に集まって、自分たちで選曲をして、いざ、音を出すと、誰かが止まってしまうぐらい合わないって!? いったいどんな現象が起こってるんですか! おもしろ過ぎるお話ではありませんか。

 私は、正直言って、何とかしてやりたいと言うよりも、いったい彼らの身にどんな事が起こっているのか早くこの目で彼らの演奏を見て確かめたいというウズウズした気持ちで翌日の彼らとの約束時間を待ちわびたのでした。

 そして、私は彼らと一緒にスタジオに入りました。そして、彼らはジグを1セット演奏しました。

 ・・・・・・・

 最後まで止まらんかったやん?

 最後まで止まらずにできたのは実は今が始めてです。by B君

 僕は何度か止まりそうになってました。by D君

 私はすぐに取り戻して入ったけど、正直言って2回止まりました。by Rさん

 くっくっくっく・・・なんと、ギターまでが止まってしまうのでしたか!?
私はやはりこみ上げる笑いを抑えることができません。

 僕ら、本当にいろいろやったんです。第三者に聴いてもらって何か指摘してもらおうとか、そういう事も色々やったんです。by B君

 はいはい。分かりました。ちょっと確かめてみたいので、今はギターが真ん中にいるけれど、ちょっと並び方を変えて、フルートが真ん中に来てもう一度演奏してくれへんかな?

 僕とホイッスルが隣同士になったらそれは絶対ダメですっ。by B君。

 いやいや、敢えてそれをやってみて欲しいんや。

 ・・・・・・・

 オーケー。わかったわかった。とにかく、本番はあともう数時間後に迫ってるわけやし、ここは、とにかく、より合う演奏をするにはどうすればいいかというので良いのやね?

 はい! それさえアドバイスもらえればと思ってここに来たのですから。byB君。

 じゃあ、これをああしてこうして、君はこう、君はこう、というような感じでやってみてみ?

 ・・・・・・・

 ね? さっきに比べて最後までスムーズに演奏できたでしょう?

 でも、すごく気持ち悪い感じです。by D君。

 今はもう時間がないから、君らが気持ち悪いのと観客の皆さんが気持ちお悪いのとどっちを取るか究極の選択をせにゃいかんわけやね。

 では、この方法でもう少しここで練習させてください。by B君

 というわけで、パーティーでの本番では、まあ、ぱっと見はそれほどに変な演奏には聞こえないまずまずの演奏をした彼らでしたが、ステージから降りて来た彼らには達成感も何もなくただただ3人が3人共に小首をかしげるばかりだったのでした。

 さて、では、彼らの身にいったい何が起こっていたのでしょうか?

 まず、彼らは、平等の精神に基づいて各々好きな曲を持ち寄ってそこから選曲をしました。これで、結果的に誰かが初めてやる曲。というか、3人中2人が初めてやる曲を3〜4曲、というセットリストを作ってしまいました。

 これによって、それぞれがまだ何でもつるつる演奏しまっせ!状態ではない発展途上の諸君は、この初めてやる曲を覚えて、笛なら笛で、とにかくまずは指が動くように個人練習につぐ個人練習。

 普通の音楽ならまあこれで後は何度も何度も根性合わせしていけばなんとか格好つくもんなんですが、ここではそうはならなかったんですね。

 それは、何故かと言うと、B君はことさらジグが大好き! 演奏でそれがそっくり再現できるできないに関わらず、ジグとなればB君の解釈するところの心地よい「ジグの揺れ」がB君の身体全体を支配するのです。この「揺れ」がそのまますべてB君の吹くフルートの出音に反映されればそれはもう大したものなのですが、吹き慣れている大好きな曲でもなかなかそうはうまくいかないのに昨日今日覚えたばかりの曲ではなんともどうにもならない。

 つまり。身体は揺れる。出る音はその揺れを追いかけるようにしどろもどろになってなんとかかんとかメロディーの体裁を保つのが精一杯。

 でも、それはそれでですね。B君ひとりで吹いてもらうとこれが、独特の味があってなんとも言えない良い感じを出していたりします。この辺が面白い所です。

 そうすると、D君はその時何をどうしてるのだ?と申しますとですね。D君はD君でメロディーを必死で吹いているわけです。

 練習会においては彼は拍感覚が割にしっかりしている印象がありヨコノリの感覚も食いつきが良かったのですが、こうやって少数で合わせる時にはついつい人柄の良さが出てしまうのか、他の人のメロディーの、メロディーそのものを拍感覚のガイドにしてしまっておりました。

 結局、B君の吹くフルートのメロディーに拍感覚の手がかりを求めておったというわけです。
 
 しかし、そうやってD君が出す音は実はB君の身体の揺れに大いに邪魔になるのです。つまり、B君の出す音に合わせようと頑張ったD君の音がB君の「揺れ」を疎外しB君は吹けなくなってしまう。すると、何とかかんとか流れていたB君の音が狂って来ますから、それをより所にしていたD君が吹けなくなってしまう。これは、スパイラルですね。

 そして、Rさんは最近になってなかなか出す音がまとまってきた感のある練習熱心なギターなのですが、いかんせん、彼女も拍感覚のより所を一緒に演奏するメロディー陣に求めてしまうクセがなかなか取れない。

 まあ、アイリシュの伴奏というのは一般的に特にこの傾向から逃れるのが難しい。というのは、セッションの場などにおいて、少し慣れて来ると、例えば、自分の全く知らない曲が始まってもなんとなく合わせてしまうことができるようになっていきます。でも、ここには大きな落とし穴があって、そういう時は初めて聞くその曲のメロディーに必要以上に集中してしまうのですね。つまり、伴奏をするにあたっての拍感覚を全面的にそのメロディーに依存することになります。これがクセになってしまう傾向が大きいのです。

 というわけで、最初真ん中に陣取っていた彼女は、左右どっちの出すメロディーをより所にすれば良いのか、時に板挟みになってにっちもさっちもいかなくなってしまうのでした。

 つまり、これが、何回か前にここに書いた「拍感」の重要なところなのですね。B君は例えばその大好きな「揺れ」というのは「ビート感」に属するものなのですが、「拍感」の土台が弱いというだけで、彼の「ビート感」は結果的に一緒に演奏する人を惑わせる要因になってしまっていたのです。

 しかし、一般的に「ビート感」の違う者同士が一緒に演奏することは多々あるわけです。有名所のバンドにもそういう例はいくらでもあります。むしろ、そういう部分がアンサンブルの奥深い味わいを作る要素にもなるのです。が、この場合はギター等のリズム楽器が最低限の土台を橋渡しする「拍感」を提供しなければいけないわけです。ギターはギターでしっかりと揺るぎのない自分自身の「拍感」を持っていなければならないというわけです。

 それでは、一般の音楽において、特に初心者の皆さんのバンドで頻発する「根性合わせ」という現象は何故起こり得るのでしょうか?

 それには、まずは、まずメンバー全員のリズム感が「タテノリ」に統一されている必要があります。ここで言う「タテノリ」というのは等分拍の中で「強」か「弱」しかない状態だと考えてください。この状態で「拍」が狂うケースというのは早くなるか遅くなるかのどちらかです。この2通りの狂い方しかありません。さらにまた、この2種類の狂い方というものは本人達にとっても自覚が容易です。結局、何度も何度も同じ曲を練習しているうちに自然に何とか格好がつくようになるのです。

 「根性合わせ」の弊害は、その「根性合わせ」やったメンバー同士での演奏でなければ各自がまともにその音楽を演奏出来なくなる可能性が非常に高いという点です。つまり、他のミュージシャンと一緒に演奏することができないという状態です。これは、セッションなんてもっての他という世界ですね。

 これは、アマチュア・ロックバンドに非常に多いケースです。全曲オリジナルなんてことになるともっとやっかいな事態になります。メンバーがひとり抜けただけでもう全く補充がきかない。それまでの「根性合わせ」の儀式を通過していないミュージシャンにはどんなに楽器が上手くても抜けた人の代役はとてものこと務まらないというわけです。

 話がちょっと横にそれてしまいました。

 では、本番直前の、B君、D君、Rさんのこのユニットに、私は何をどうのようにせよとアドバイスしたか?という話です。

 まず、B君が真ん中に陣取って少し前に出る。つまり、B君の視界にD君とRさんが入らないように、D君とRさんはB君の斜め後ろ両横あたりに陣取る。

 そして、B君は全く誰の音も聴かずに自分のペースで演奏しましょう。次に、D君とRさんも誰の音も聴かずに、ただ一点、B君の肩あたりの動きだけ見て演奏してみましょう。

 とまあ、ただ、これだけ言ったわけです。 

 <すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・いやはや、こういう事がおこるから合奏というのは摩訶不思議で面白いんですね。>

               *****

 

 

2009年7月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ 練習会の崩壊? あるいは改革? その2
■                          field 洲崎一彦
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 さて、前回の続きというか、途中経過と言うか。

 私がある日のアイ研練習会で、とある演奏家のアイリッシュ・チューンのソロ演奏の音源を参加者に聴いてもらって、
 「これにぐっと来なかった人はもうこの練習会に来なくても良い!」
と言い切ってしまった、この練習会は果たしてそのまま崩壊してしまったのかどうか、である。

 現状を言うと、それから約1カ月。練習会はまだ続いている。では、皆さん「それ」にぐっと来たのか? 実はそれも定かではないのだ。何事も無かったかのようにこの練習会は毎週淡々と続いている。

 ある意味で、これが一番怖い展開だったかもしれない。

 結局、事ここに至って、この問題は、今後、私が自身の信念に従って総攻撃に打って出るか、あるいは反転退却に方向転換するかの瀬戸際に立っていることを予感させるのだ。

 ほぼ丸3年に渡ってこの練習会を続けて来てつくづく感じるのは、ここにやって来た自称アイルランド愛好家の皆さんの大多数が私とは全く違う音楽の楽しみ方をしていたということだった。

 初心者の皆さんが多かったからというのはあるかもしれない。が、その彼らがわが練習会を一歩出てプライベートな音楽活動に戻ればそこにはちゃんとした中上級者の先輩も居るであろう音楽環境があるわけだ。

 現に、今、練習会に来てくれているある大学の音楽系サークルに所属するS君は普段はサークルの先輩とバンド活動をしている。そして、
 「バンド活動の場では、この練習会でやっているような視点で、先輩達に意見することなんてとてもできませんよ」
と、言う。

 そういう彼らを通じて見えるのは、彼らの方が明らかに多数派であるということだ。この事実はそろそろ素直に認めなければならないのかもしれない。

 鑑賞者の耳もまた然りである。

 先日、とあるアイリッシュ音楽のライブを観る機会があった。そのライブにはふたつのユニットが出演した。片方のユニットはメンバーそれぞれの楽器の操作技術が一定水準以上でいわゆる上手い人が寄り合ったユニット、これをAとする。もう片方は各人の楽器の操作技術に少々つたなさを感じつつも彼らなりの工夫の跡が感じられるユニット、これをBとする。
 
 私は、一緒にこのライブを観ていた人達にこのふたつのユニットの感想を求めたのだが、皆口々に判で押したように同じことを言う。いわく、
 「Aはさすがに素晴らしかった。でも、Bもまあまあ面白かったね」

 私の感想はむしろ逆だった。

 Aはまったく合ってなかった。それぞれが上手くても合ってない合奏は騒音であるとつくづく思い知った。Bは練習と工夫の跡がひしひしと感じられ時折それが波動のようにこちらに迫ってくる非常に素晴らしい演奏だった。

 このように感じた私は、普段、練習会に参加してくれている人であれば、このライブはいつも練習会で言ってるいろいろな事柄に対する非常に分かりやすい例だと思って居合わせた彼らにもその感想をたずねたのだったが。

 結局、ここで明らかなのは、演奏者と鑑賞者の需要と供給のバランスは実は見事に保たれているという事実だ。

 そこに、私のような者が入り込むすき間はどこにもない。

<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・このまま行くともう引きこもるしか助かる道はありませんね。まあもう半分は引きこもってますが> 

               *****

 

 

 

2009年6月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ 練習会の崩壊? あるいは改革?
■                          field 洲崎一彦
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 さて、前回はfieldアイ研の創立メンバーの1人と言ってもいいA先生の特別セミナーの開催が、私自身のアイリッシュ音楽に対する姿勢の中途半端さを浮き彫りにした、という話題だった。

 今回は、その続きである。というか、前回ここに書いたような出来事があって、まあ、ああういう刺激もたいていは1カ月もすると日常に押し流されて少しは色あせるのが普通なのだけれど、今回は何故か自分の中で尾を引いたのだった。

 前回の原稿をきっかけに何人かの人たちとメールで意見交換をしたり論争があったり、まあ、そういう付録もついた。

 しかし、つまる所は、わがfieldアイ研練習会の問題だ。前々回も書いたように、その私の手前勝手な論理の強行がM君のような悲劇も生んだ。もはや、この練習会は公害と化しているのではないのか。公の害というのも変か。しかし、ビジネスはしてないから詐欺ではないし、とにかく、単にややこしい存在になっているのではないか。

 あ。いや。ここで妙に謙虚ぶるのもよけいに嫌らしいな。平たく言えば、私の姿勢の中途半端さが、私の考えるよりも大きな誤解というか混乱をまき散らしていたかもしれないという事に気が付いたのだった。

 現在、この練習会に参加してくれているのは、大まかに言うと、1名の上級者を除いてはようやく初心者を脱しつつある者約2名、あとは初心者5〜6名である。毎回全員が参加するわけではないが、まあだいたいこの中から常時5〜6名が参加してくれている。

 みんな、アイリッシュ音楽が好きで、自分でそれを追求し演奏したくてここに参加するようになった。と、私は思っていた。いや、正直に言うと皆が皆そうではないのは薄々気が付いていた。が、気が付かないフリをして、強引に前に進んで来た。

 微妙な問題である。アイリッシュ音楽が好きだと言うのだから、それを自分で演奏してみたいと言うのだから、皆、あの、アイリッシュ音楽の「あの感じ」に惹かれて、いてもたっても居られんようになって、やむにやまれず、ここに来たんやろ? 

 言葉で言えば、こんな台詞になるかもしれない。ここで、問われた人が「あの感じ」って何ですか?と聞き返してくれればまだ軽傷で済んだのだ。いや、ヒトのせいにしてはいかんね。そんなことを聞き返して来ないことも私は重々知っていたのだから。また、たとえ聞き返されても、
 「あれ、よ! あれ!」「ね?わかるでしょ? あれ!」
ぐらいの返答しかできなかったはずなのだから。

 それは、極端な例で思い知らされることは何度もあったはずなのだ。ある時、楚々とした女性がやって来て、私アイリッシュ音楽にとても興味があるんですと言うので、じゃあこれからセッションがあるので是非聴いて行ってちょうだいとセッション席に招く。しばらく黙って聴いていたかと思われる彼女は、突然、あのうリクエストしていいですか?とダニーボーイをやってくれと言う。まあ、一応皆知ってるから演奏する。終わるや否やまた誰かが高速リールを弾き始める。そんなこんなでセッションが終わった頃には気が付くともうその女性の姿は無く、そして彼女は二度とやって来ることはなかった。

 前々回に書いたM君にしても〜。今、思い出した、彼が初めてやって来た時の事を。彼の開口一番は「僕は葉加瀬太郎の情熱大陸をコピーしました!」であった。せめて功刀丈弘であったら〜、である。そして彼はそのままの体勢でこちらの提示する論理に食いついた! それを重々知ってて食いつかせたまま引きずり回した。どう考えても酷であった。

 先日の練習会で、私は思いきって勇気を出して皆にたずねてみた。今、はまって聴いているアイリッシュのCDは何?

 「特にコレと絞っては聴いてません」
 「ダービッシュです!」
 「はまってないけど、バンドでコピーしてるので、フルックです」
 「アイリッシュじゃなくて今はヴェーセンにはまってます」
 「パットオコナーです」
 「今はアイリッシュは聴いてません」

 と、言うことなのだった!

 よし、と私は決心した。

 ここに、1枚のCDRを用意して来た。これは、とあるアイリッシュ音楽演奏家のプライベートな録音音源である。公に出すべきものでは無いので、ここにもそれが誰であるかは書けない。ただ、日本人でないことだけ記しておく。

 彼は、ここで、全くのプライベート・リハーサルをしている。チューンを組み合わせて新しいセットを試している。いわば練習風景を収録した音源だ。所々間違ってたりする。遊びもけっこう入ってる。彼の演奏会に出かけても滅多に聴けないようなラフな演奏である。演奏の完成度は低い。伴奏も何もない全く彼ひとりのソロ演奏だ。

 それだけに、とてもクセのある演奏である。クセだらけである。だが、そのクセは彼の個人的なクセと言う部分も確かに大きいのだが、これはアイリッシュ音楽特有のクセである。特にそのビートと言うかその「揺れ」は多くのアイリッシュ音楽にみられる共通の雰囲気ををデフォルメしている。

 この音源を、練習会の皆さんに、誰の演奏であるかを伏せて30分ほど聴いてもらった。

 とりあえず、なんでもいいから感想を言ってみて。

 「おおげさな感じがしました」
 「何が言いたいのかわからんかった」
 「ん〜っ?て感じ」
 「あんまり上手くない」
 「・・・・・」

 概して皆さんにはあまりウケがよろしくない。

 続いて、もうひとつ別の音源を聴いてもらうことにした。これは実は field のセッションを録音したものだった。

 これは、皆さんすごく聴き慣れたサウンドでしょう? さっきのソロ音源と同じ曲ではないけれど、同じようにリールとジグを演奏しているけど、どうですか? さっきのと比べて。

 これは、私などは同じジャンルの音楽をやっているとは到底思えないほど違うサウンドにしか聞こえないのだった。こうやってモロに聴き比べるのは自分でもこの時初めてだったのだが、これほどまでに違うとは! 私的にはこういう皆さんがいる所でこんな聴き比べをするべきじゃなかったのではないかと一瞬焦るほど、その差が明白だった。

 field セッションの主催者としては、同じ意味で、こんなことをここに書くべきではないのかもしれないのだが。

 しかし、皆の反応は至って鈍い。

 さて、この問題は非常に深い。 

 ここに居合わせた皆さんの中には、アイリッシュ音楽に興味を持ち始めて field セッションをのぞきに来てみて、何か大勢でワイワイ演奏しているのが楽しそう!と思って通い始めた人も少なくないのである。

 その、field セッションのサウンドを何となく否定するような方向へ、私の問いかけが誘導しているように感じて戸惑っている。そんな皆さんの表情がモロに見て取れるこの状況。

 しかし、わが練習会は、例えば、

「あれ。あの感じはね〜。皆さんが普通に感じているタテノリの感覚では難しいんですよ〜。それにはヨコノリの感覚を知って欲しいんです。ヨコノリ。あまり馴染みがないですか? だったら、まずはヨコノリという感じを知ってもらう必要がありますね〜。ヨコノリで一番分かりやすいのがいわゆるブラックアメリカン音楽です。なので、どうでしょう?こういうのを聴いてみましょうか?」

 などと言って、往年のディスコ音楽やジャズを聴いてもらったりして。こちらの手応えとしては、黒人ビートのヨコノリを感じてもらうにもこんなに苦労するのか!と途方に暮れて・・・、

 そんな段階で立ち往生している間に、前々回も書いた、大多数の初心者の皆さんにはヨコノリ、タテノリどころか、基本的な「拍感」という問題をすっ飛ばすと大変な事態になってしまうなどと言う失敗にも気づき、結局は、本来の「目標」である「アイリッシュのあの感じ」を具体的に提示する機会が逸したままここまで来てしまっていた。

 と、言うのは表向きの言い訳で、ヨコノリに手こずった私としては、こんな状態で「アイリッシュのあの感じ」に持ち込めば、ほとんどの人が怖じ気づくんじゃないか!?

とか、

 黒人ビートを基調とするヨコノリをつかむだけでも少なくとも、アイリーン・アイヴァースやソーラスの聴き方が変わるだろうから、それでヨシとするか! 

 というような、具体的にはこういう中途半端で妥協的な考え方が私の中にあったことは否めないのだった。

 しかし、この練習会のこれまでの弊害やこれからの意義を考えると、私は思いきって言わなければならなかったのだった。

 「最初に聴いてもらってたソロ演奏にグッと来なかった人は、もうこの練習会に来ない方がいいです」

<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・アイリッシュパブ field がアイリッシュパブなどと名乗れなくなる日を賭していますね。我ながら危険です。> 

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2009年5月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ A先生の教訓
■                          field 洲崎一彦
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 わが、field アイルランド音楽研究会では、有志、特にアイルランド音楽初心者の皆さんに集まってもらって毎週「練習会」なるものを行っているのだが、まあ、この所いろいろな理由で毎週開催できなかったり、私自身が出席できなかったりするような状態が続き少々活気が薄れて来ていたのだった。

 そんなタイミングで、アイ研練習会特別講座「A先生のDADGADギターセミナー」を開くことになった。練習会に参加しているメンバーに特にギター志望の初心
者諸君が3人もいるということと、いつもこの練習会で呪文のように唱えている「ビート!ビート!ビート!」の苦行から少し気分転換することも必要だと考えたのだ。

 それには何よりも本場のアイリッシュ音楽に精通し、ギター以外にもイルン・パイプ、ホイッスル、バウロン等をマスターするA先生は特別セミナーには打ってつけの講師だった。

 A先生は私たちのこの依頼を快く承諾してくれて、セミナー当日には自らテキストまで作って、阪急電車を乗り継いではるばる field studio まで足を運んでくれたのだった。

 さて、セミナーが始まった!

 ふんふん。なるほど、なるほど。さすがさすが。と、いちいちうなずいてしまう講義が続く。フィドルとコンサーティナーのしぶい音源や、ピアノとコンサーティーナのレアな映像の紹介などを交えて、練習会メンバー(それ以外のアイ研部員も混じってたので実際には field studio のレッスンルームはほぼ満員になってしまったのだが)は約2時間の講義に皆釘付けになった。

 担当楽器がギターではない人も特に興味を持って参加してくれたのだが、こういうメンバーをも全く飽きさせない巧みな内容で、アイ研にはこんなにグレイトな先輩がおるんだぞ!と、私がメンバー達に胸を張りたい気分になってしまうひと時だった。

 セミナーを終えて、下のパブに降りてちょっとした懇親会になった。質問攻めに遭うA先生はそのひとつひとつに丁寧に答え、危うく終電を逃す所だった。

 というわけで、私自身が個人的に久しぶりのA先生とゆっくりおしゃべり出来なかったのがちょっと心残りだった。

 A先生がお帰りになってからも、残ったメンバーでああでもないこうでもないという音楽雑談になったのだが、そこで私に話しかけて来たのが、元fieldスタッフで最近また京都に復帰して来たMだった(前回の残酷物語のM君とは別人です)。

 Mは元々、ジャズを中心に非常に広範囲な音楽を聴いている奴で、自らギターやベースも演奏するが、ちょっとまあ信じられないぐらい耳が良い。かつては、その良すぎる耳が邪魔をして自分で楽器を弾くという行為を否定してしまった伝説の過去を持つ男である。そのMが、最近、京都に復帰して来たのをきっかけに、以前にも増してアイリッシュ音楽に惹かれ始めたようなのだ。

 Mが言う。

 A先生の講義は本当に面白かった! でも、アイリッシュっていうのは実に特殊な音楽なんですね?

 私はこの台詞に、ハッとなった。

 そうなのだ。その通りなのだ。アイリッシュというのは実は非常に特殊な音楽なのだ。

 しかし、まず、この場所でそれをクローズアップするべきかせざるべきか、という問題があるのだ、と、私はMに応えたのだった。

 ひとつに、この練習会に集まるメンバーのほとんどは、アイリッシュ音楽の初心者でもあるが、楽器それ自体の初心者であり、大きく言えば音楽の初心者でもあるのだ。

 アイリッシュ音楽の持つ特殊性を強調すれば、まず彼らが身に付けなければならない「音楽それ自体の基礎感覚」が大きく狂ってしまう恐れがある。あるいは、せっかく興味を持ったアイリッシュ音楽に対して敷居の高さを感じて尻込みしてしまうかもしれない。

 確かに、A先生は本場アイルランドにおけるセッションの作法と言えるものにも言及した。つまりアイリッシュ音楽における文化背景というものにもきっちり触れた上で、ギターセミナーと名打っている講義の一番冒頭に、

 セッションにおいて、アイリッシュ・チューンにギターで伴奏をすると言うことは、メロディを奏でている人の邪魔をすると言うことです、と言い切った!

 まったくその通りなのだ。その通りなのだが、それを言切ってしまって良いものか。ある意味、私は心の中で「よく言ってくれた」と喝采した。

 同時に、あ!と思って反射的に受講メンバー達の顔色を見渡してしまったものだ。

 Mはさらに続ける。

 アイルランドの伝統的音楽の表現を再現するという方向はどこまで厳密に意識しなければならないのでしょう?

 
 そう。そこは非常に大きな問題なのだ。

 今はもう、例えば、ルナサやソーラスが、トーラ・カスティやトミー・ピープルと同じアイリシュ音楽として聴かれている現実。ここに既に混乱の源がある。

 Mの言葉を借りるまでもなく、ルナサやソーラスは実はフュージョン・ミュージックである。と、言って、そのフュージョンが悪いと言ってるわけではない。これもまた、現代のアイリッシュ音楽に確立されたひとつの方向であることが事実なのだ。

 つまり、初心者諸君を惑わせるのではないかということを言い訳に、私たちがこの双方向にまたがる立ち位置を曖昧にしたままでいるという事実がここに浮き彫りにされるのだ。

 それに対して、A先生の立場は微塵もぶれていない。A先生はアイルランド音楽の民族音楽としての正確な再現を目指している。今回のセミナーでは、特にその強固な姿勢がビシビシと伝わって来た。
 
 Mはさらに続けた。

 でも、やっぱりルナサはアイリッシュですよね。もしかしたら、アイリッシュのフュージョン化にはアイルランド人だからこそ超えられない何かがあるのかもしれないでしょう。そうすると、アイルランド人じゃないわれわれにはもっと自由があるはず。例えば、リールの持つヨコノリを思い切ってスイングに解釈して4ビート・バップの手法で演奏する人達とかが出て来てもええんやないかと思うんです。

 こういう話をされると、私は思わず膝を打って興奮してしまう。A先生が提示してくれたあのコンサーティーナとフィドルの独特のアイリッシュ・ビートの話題と同等の興奮を、思わず覚えてしまうのだった。

 私の中にある中途半端な立ち位置はまだ当分の間は尾を引きそうですね。

<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・アイリッシュ・マニア vs 音楽マニアの戦争はいずれ避けられないものとなるのだろうか?> 

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2009年4月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ ビート議論、再び 〜M君残酷物語への懺悔〜
■                          field 洲崎一彦
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 最近はちょっと控えていた「ビート議論」を再び引っぱり出すことにする。それは、これまで行ってきた field アイ研の練習会に於いて、特に過去のある時期の練習会の場で少々間違った概念を皆さんに植え付けてしまっていたかもしれないということにごく最近気が付いたからだ。

 その当時、練習会に参加してくれていた人たちは現在の練習会にはもう来ていないし、また、既に関西圏を遠く離れてしまった人もいる。

 その中には、大きな誤解を抱えたまま音楽に失望してしまった人もいたかもしれない。現に、当時、非常に熱心に練習会に通ってくれていたM君は途中で完全に楽器が弾けない状態に陥ってしまった。彼もまた今は関西圏を遠く離れ、今では楽器に触っているのかいないのかも不明である。

 以上のような理由で、一種の罪滅ぼしを兼ねて、この議論をここに再び引っぱり出すことにした。

 「ビート議論」というのは、簡単に言ってしまうと、ミュージシャンの皆さんが普段なんとなく「感じ」で使っている言葉である「ノリ」や「グルーブ」という概念に一定の定義を与えそれを論理化しようという試みである。

 また、この作業を行うにあたっての資料として、アイルランドのダンス音楽が、ある理由で非常に適しているのではないか、という仮説により、当 field アイルランド音楽研究会の練習会において全面的にこの問題の試行錯誤を行ってきた、あるいは現在進行形で行っているものである。

 「ビート議論」は当初、field アイ研の有志によって、とある疑問をきっかけに始まった。そしてその疑問にいろいろな仮説を立ててアイ研練習会の場に於いて試行錯誤や実験を繰り返してこねくり回している概念であり、未だ完成の域には達していない。

 「ビート議論」の「ビート」も単に「拍」の英語表記である「beat」ではなしに、日本語の「ビート」として、「ノリ」や「グルーブ」と同じようにミュージシャン達に習慣的に使われる言葉なのだが、「ノリ」や「グルーブ」に比べるとまだインパクトの弱い表現であるという印象が強かったため、これをこの概念の表題として使用することにしたのである。とりあえず新しい概念には名前を付けておかないといたずらに混乱を招く。とは言え、この概念が本当に新しいのかどうかも未だ不明なままなのだが。

 「ビート」と言うからには音楽のリズム面を扱うわけだが、この「リズム」という概念もまた混乱はしている。一般に「リズム感が良い人」というのは、その音楽が持つ一定の拍、つまりメトロノーム的な一定間隔の拍動に敏感な人であることが多い。

 そして、全ての疑問はここから始まる。この状態のリズム感の良い人の演奏が必ず「ノリ」があり「グルーブ」しているかというと必ずしもそうではないという事実に気が付いた時、では、「ノリ」や「グルーブ」を出現させる要素は必ず「リズム感の良さ」であるとは限らない、では、それは何なのか?という疑問に行き着くのである。そして、何かそのようなまた別の要素があると見なして、これに仮に「ビート感」と言う言葉を置いてみたのである。

 この試行錯誤は、当初、ある程度の音楽演奏経験のある人たちが集まって行われた。しかし、「ある程度」の経験ほどやっかいなものはなかった。かつて自ら経験してしまった事は大きなインパクトを持ってその人間に宿ってしまう。つまり、各人はそれぞれに非常に頑固な自分なりの音楽感を潜在的に持っていて、このような試行錯誤の作業によってそのことが徐々に顕在化して行ったわけである。

 随所に発想の転換が求められるいろいろな実験作業は一部の人間には大きな不快感をもたらせることになり、このチームでの実験作業はあっけなく崩壊したのだった。

 以上を踏まえて、次の実験は、信念を強固にする音楽経験をそれほど積んでいないであろう初心者に向けての練習会という場に移行したのだった。

 さて、ここで、私たちの側に大きな混乱が生まれたのだ。つまり、それまでの試行錯誤では上記の「リズム感が良い」という状態は当然の前提条件として無視していた、あるいは、それは重要なことではなくその他に何か別の重要な要素があるはずなのだ、という仮説に固執していたのだった。

 初心者練習会という仮面をかぶって更に実験を継続しようとしていた私たちは、目の前に現れた人たちの中に音楽に合わせて普通に足踏みが出来ない人々が混入していることにがく然としつつも、平然と見て見ないフリをしてしまったのだった。

 混乱した私たちは、この人たちを前にしてなお、その「リズム感」は重要なことではない、という従来の姿勢に固執したのだった。いわゆる拍を刻む感覚よりもその拍の中からもっと重要な要素を見つけなければならないという強迫観念に駆られていたのだ。そして、その、もっと重要な要素というもののヒントに「横ノリ」という概念を強引に導入した。

 この「横ノリ」という言葉も、対概念の「縦ノリ」と共にミュージシャンの皆さんの習慣的語彙として頻繁に使用されるが、その割には決定版と言える定義が存在していない。しかし、多くはアメリカ黒人音楽やラテン音楽を扱う日本人ミュージシャンの皆さんが比較的よく口にする言葉であった(アメリカのジャズやブルースが大好きなアフリカ系アイルランド人のマテオ君が私たちの練習会に参加してくれた時、この「横ノリ」「縦ノリ」の概念を初めて聞いたと言っていたので驚いた記憶がある)。

 そして、私たちはアイリッシュ音楽演奏の初心者練習会にやってきた皆さんに対して、連日、ブラックコンテンポラリーやディスコやフュージョンと言った、いわゆるブラックアメリカン音楽をガンガン聴かせ、おまけに踊ってみよ!とまで号令し、とにかく手を替え品を替え「横ノリ」というものだけに的を絞ったカリキュラムを強行したのだった。

 この時期に熱心に練習会に通ってくれたのが冒頭で紹介したM君であった。

 今になって冷静に振り返ると、「リズム感が良い」状態とされる「拍感」の伴わない「横ノリ」というのは単なる「揺れ」でしかない。この時期の参加者の皆さんは多分に「拍感」という概念は忘れてすべてを「揺れ」でとらえなくてはいけないと誤解したかもしれないのだ。

 極端には、M君のように「拍感」を捨てる努力をしながら「揺れ」だけに頼って楽器を弾こうと真正面から努力して、しまいには楽器が弾けなくなってしまうという現象が起きた。

 そして、M君はいつしか練習会に来なくなった。

 ある時、彼はアイルランドに旅行に行って来ましたと言って皆へのお土産をどっさりかかえて練習会の私たちの前に姿を見せた。

 そこで、彼は、

向こうでは、ここでやってるみたいな面倒な事を考えて楽器を弾いてる人は誰もいませんでしたよ! みんなただ楽しく弾くことしか考えてませんでした!おかげで僕はまた楽器が弾けるようになりました!

 と言って彼は私たちの前でリールを1曲弾いてくれたのだのだった。

 そして、それを演奏し終わったあと、彼は、僕はもうアイリッシュ音楽はこれで卒業します、と言い放って去って行った。

 この時の彼の演奏は、荒っぽくも、実にアイリッシュぽい横ノリを備えた生き生きとした演奏だったのが非常に印象的で、今となってはアイ研練習会のひとつの伝説として涙と共に語り継がれているのでありました。

<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・M君! もし、どこかでこれを読んでたら連絡せよ!> 

 

 

 

2009年3月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ 中身?ほんまに自信あるか?
■                          field 洲崎一彦
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 fieldでは、この2月3月に東京のアイリッシュ系バンドのライブが相次いだ。それらのバンド達はそれぞれ全く違った個性を持ちそれぞれに非常に楽しめる良いバンドであった。が、ここに、関西の、いや、field まわりの同系のバンドやミュージシャンにはない何ものかを彼らが共通に持っていることに気が付いたので、今回はそのことを話題にしてみたいと思う。

 彼らは、恐らく、時には演奏により報酬を得る機会もあろうが、フルタイムで音楽で生計を立てている層のミュージシャンではではないと思われる(これは勝手な想像です。間違ってたらごめん)が、この層のミュージシャンは field まわりにも大勢いるわけだ。私が感じたのは、東京のミュージシャン達がはるかに「プロ」だという点だった。

 私は、正直言って、自分のパブを始めてからこっち一度も東京には行ったことがない引きこもりおやじである。少しは東京のミュージシャンとも交流はあるものの私自身は東京のアイリッシュ・セッションにも一度も参加したことがない。なので、東京のアイリッシュ・シーンについては皆目その空気を知らない。そのような引きこもった目から見て、東京のミュージシャン達に共通するあるひとつの雰囲気。これが、京都の同じ様な層のミュージシャンに比べて「プロ」だと感じさせる何かであるということなのだ。

 「プロ」というのも非常に曖昧な表現かもしれない。が、ここではひとつのキイワードとして使ってみた。この雰囲気をひとことで言い当てるのがなかなか微妙であるからしてこんなキイワードを使ってみたというのが正直なところである。

 では、彼らを「プロ」とするならば、fieldまわりの京都のミュージシャンは何と言い表せるのか?「プロ」に相対する言い方を選ぶとするとそれは「趣味人」とでもなるだろうか。

 これは、演奏が巧い下手というたぐいの話ではない。そういう次元の話に関係なくて、東京の彼らには常に聴衆という存在がしっかりと意識されていてその聴衆に自分たちの音楽をきちんととどけて楽しんでもらうのだというはっきりとした意思が強く感じられたのである。

 逆に言うと、京都のミュージシャン達にはこの意識が希薄なのだ。言い切ってしまうと誤解もあるだろうが、東京の彼らと比べた場合にはこれは断言してもさしつかえない。それほどはっきりしているのだ。

 その違いは、あらゆる場面に現れる。

 まず、一番分かりやすい所で言うと、彼らの持っている楽器や機材が違う。フィドルやギターには必ずピックアップ(内蔵マイクやクリップマイク)が仕込んであってきちんとしたプリアンプを自前で用意し後はPAミキサーからのケーブルをつなぐだけという周到さである。ある人は自前のアンプまで用意して来た。また、自前のMCマイクを用意して来た人もいた。

 対する京都の人たちはどうか。ギターやフィドルに自前のピックアップを用意している人がはたして何人いるか? ピックアップを用意して来たとしても、それをPAミキサーにつなぐためには、プリアンプ、あるいはダイレクトボックスという変換器が必要である、もしくは、そういう装置には電源が必要でそれがバッテリーで供給されているのか、ミキサーから送る電源で供給される仕様なのか、はたまた別個にコンセントから電源を取らなければならにのかという事さえ全把握していない。ただ、「あの〜、これつなぎたいんですけど〜」という調子である。

 そのあたりをなんとかクリアした場合でも、自分で組み込んだギターのマイクが内部配線の接触不良で本番に鳴らなかったり、フィドルに取り付けたマイクをPAスピーカーの間近に近づけてキーン!キーン!と終始刺激的なハウリング音を轟かせてしまう人も普通にいる。

 東京のミュージシャンはお金持ちでデラックスや!と言うのが往々にして京都の人々による感想なのであるが、これは、お金があるないの問題ではなくて、聴衆に自分たちの音楽を聴いてもらうという心構えの差なのではないか、というのは私の極論だろうか。
 
 この差は、何もお金のかかる楽器や機材の面だけではない。あらゆる側面に現れてくる。

 例えば、東京のバンド達は、こちらの定めるライブの時間を非常に気を付けてくれて、自分たちのプログラムを削ってまで予定時間を守ろうとしてくれた。

 対して、京都のあるバンドは予定時間を1時間以上オーバーしたまま平然とライブを続けておまけにアンコールにまで悠然と応えようとする。京都のバンドが全部が全部こうだというわけではないが、時間を気にしている素振りを見せてくれる人たちがごくわずかであるのは事実である。

 あるいは、そのステージ進行である。東京のバンド達は適切に必要最低限のMCアナウンスを織り交ぜながらステージ進行の全体を見通して聴衆にいかに親切に音楽を届けるかをちゃんと考えているのが伝わってくる。

 対して、京都の人たちは、MCアナウンスをするにしてもマイクに向かってしゃべらなかったり、声がマイクに通ったとしても小さな声で何言ってるのかわからなかったり、または、曲名すら紹介せずにただ淡々と演奏を続けたり。

 あるいは、全く逆に、音楽を演奏するのか笑いを取りに来たのかわからなくなるほどしゃべりまくるだけでなかなか演奏を始めないという例もあり(ごめんなさい。これは私のことでした)、自分たちのステージを1本通しで聴衆にどのように受け止めてもらうかという視点が完全に欠落しているとしか思えないステージ運びをする例があまりにも多いのである。

 京都の field まわりの人達にこういう話をしてみる。何人かは必ず「中身で勝負でしょう」的な反応をする。「自分たちは道化師ではない」とまで言う人もいる。

 しかしである。聴衆に向かって何かを表現する。たとえそれが無料の、あるいは投げ銭のストリートであったとしても道行く人の足を止めて自分たちの表現に耳を傾けていただくのが目的である。しばしば、その目的さえも否定する斜に構えたニヒリストもいるが、そうなるとこれはただの騒音暴力でしかない。自分たちは自分たちの良いと思っている音楽を演奏しているのであって例えば右翼の街宣車などとは断じて違う!と叫んだ所で、やかましいと思えばそれが音楽であれ街宣であれ道行くひとは耳をふさぐのだ。

 しかるに、いかに自らの表現に高尚な芸術性を自負しようとも、エンターテイメントの要素がなければそれは聴衆に向けて発するに値する行為とはならないのではないかと思う。

 なるべく多くの人たちに自分たちの音楽を聴いてもらいたい。それには、色々な場所で様々な条件の下でも出来る限り最良の状態の音楽を、聴衆が耳を傾けやすい状態でお届けするという覚悟は重要である。

 こういう覚悟が希薄だとすれば、それはただの「趣味」である。いや、「趣味」がダメだと言ってるのではない。「趣味」というのは文化的生活にとって欠くべからず高次の概念である。ただ、「趣味」ならば「趣味」に徹することが望ましい。わざわざ、不特定多数に自分の演奏など聴かせる必要はない。同好の人たちを集めて発表会をすれば良いのである。巧い下手だけを競うならその中で存分にやればいいのだ。中途半端なエンターテイメントの真似事は無為なる暴力につながる。

 ただ、最後に、京都のミュージシャン達の側に立って少しの言い訳をしておく。

 前述のとおり、私は東京の彼らの音楽環境を知らない。しかし、彼らのその体勢から想像するに、自分たちの演奏を不特定多数に向けて発表する場も機会もこの京都に比べて圧倒的に多いのではないかと思う。音響的にあまり良くない場所を経験するからこそもっと良い状態で音を出せないかと必死に考えるのだろうし、思いの外見知った顔のいない聴衆に向けての演奏機会も多いのではないか。そういう必要性から楽器や機材の知識も自然に豊富にならざるを得ず、文字通りの不特定多数の聴衆の前に放り出される緊張感によって聴衆の存在をより強く意識せざるを得ないのではないか。

 対して、京都の同ジャンルのミュージシャンにとって、パブの営業演奏以外の場では聴衆のほとんどがもはやたいてい既に見知った顔ばかりという現実がある。

 つまり、ライブを打ってもよほどの事がない限り、同好の「趣味人」の面々がそろうだけで、結局は本来の不特定多数に対する緊張感が非常に薄まる。つまり、実質的に趣味の会の発表会の要素を多分に含むものとなる。

 そういう意味では、最近、東京や福岡に向けてライブ活動を開始する京都の若者達のバンドがポツポツ出て来たというのは実に頼もしく良い傾向であるとは思う。

 が、今これを読んでくださっている非関西圏の皆様にひとつお願いしておかなければならない。

  彼らが皆さんの街にライブにやって来たとしても、決して、関西弁で挨拶しただけでウケるというような安易な体験をさせてはいけません。

 マイクに乗らない低いぼそぼそとしたMCに対しては「聞こえへんぞー!(これは関西弁やけど)」と大声でヤジっていただきたいと思います。

 長々と関西弁でしゃべり続ける輩にも、ついつられて笑ったりしてはいけません。「早う演奏せんかい!(これも関西弁やけど)」とお叱りの声を発して欲しいと切にお願い申し上げます。

<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・私は東京方面に演奏しに行く予定はいまのところありません。ほっ。> 

               *****

 

 

2009年2月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ 音楽という情報を聞く若者たちに思う
■                          field 洲崎一彦
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 さて、今回はちょっと目先を変えてみる。

 当、fieldアイルランド音楽研究会は、field pub 開店時に、私自身がやっていたアイリッシュバンドのメンバーと、当時、某大学でアイリッシュ音楽を中心とする民族音楽サークルを立ち上げた学生たちを中心に半ば自然形成されたサークルである。

 一方で、field はpub 以前から大学生アルバイトを中心にスタッフとして採用してきた。言ってみれば、私はcafe field 創立以来21年間に渡って、時の大学生達とのお付き合いを延々と続けているわけである。

 思い出してみると、20年前の大学生をアルバイトとして使うのは大変だった。今と違って、携帯電話など考えられない時代だし、ワンルームマンションどころか電話を持っている学生が希だった。良くて、廊下に共同ピンク電話の置いてあるアパートに住んでるケース。これならば、本人が不在でも電話に出た人に本人の部屋の扉に伝言張り紙のひとつもしてもらえる。

 夜9時以降は電話を取り次いでくれない大家さんの下宿であったり、もうまったく何もないアパートに住んでいる奴には、比較的近所で実家に住んでいるか電話を持っている親しい友人の電話番号もしっかり聞いておかなければならなかった。いざ、となったら、その友達に下宿まで走ってもらうのである。

 つまり、本人がアルバイトに遅刻したりすっぽかしたりすると、結果的に多くのまわりの人間を巻き込んでしまうのである。
 かつては、こういう環境に暮らす学生が普通だった。

 方や、エアコン完備のワンルームマンションに住み、光ケーブルのインターネットがつながり、ネットでは世界中の情報が瞬時にGETできるし世界中の人間と24時間通話もできる。もちろん、携帯電話は用件のある人間だけを選んで瞬時にコンタクトでき、自分に用のある人間も自分を瞬時に呼び出すことができる。
 これが、現在の平均的な大学生の環境である。

 言い古された言葉だが、情報化社会とは良く言ったものだ。

 ほんの、20年前までは電話ひとつ所有する若者がほとんど居なかったというのに、今では、ネット環境もない携帯電話も持っていない若者は各コミュニティーから完全に排除されてしまう。

 大学の課題レポートまでもがネット経由で提出なのだから、情報ツール環境を持たない学生は大学のパソコンルームにでも籠もらないとレポート提出もままならない。

 この情報化社会は、端的に言うと、ひとつの情報を得るのに他人を巻き込む必要がなくなったということである。こんな情報ツールがまったく存在しない時代では、欲しい情報を得るためには結果的に他人を巻き込まざるを得なかった。

 学生という未完成な独り者は、そうやってお互い他人に迷惑をかけ合ってぎりぎり生存していた。そんな中で共通の趣味を持つ者に出会った時は狂喜乱舞して喜び合い、互いに競い合ってその趣味を高めた。大学のサークル活動というのはそんな喜びの場所であったし、それは「場」として重要な情報基地の役割を演じていた。反面、そのような「場」は未完成な人間達のどろどろとした人間関係のるつぼでもあったし、キレイ事が通用しない弱肉強食の世界でもあった。

 片や、今の大学生達はどんなサークル活動をしているのか。

 連絡事はメーリングリストでいつでも携帯電話に飛び込んで来るし、誰かが得た情報も瞬時にメーリングリストで共有される。バンド練習(音楽サークルの場合ですが)の練習録音はメンバーのひとりがネット上にアップしたものを他のメンバーがダウンロードして試聴し、バンドミーティングもメールで済んでしまう。

 つまり、どういうことかというと、何かしようと思ったら必ず何らかの人間との何らかの摩擦を覚悟せざるを得なかった昔に比べて、これはまったく人間同士の摩擦を回避できるしくみになっているのだ。

 能動的アクションが他者との摩擦を生まないなんて!ちょっと考えただけでこれはパラダイスではないか!

 しかし、そんな昔とは言え、誰も好きこのんで他人と摩擦を起こしたいなんて考えていたわけではない。出来ればそんな事は避けたい。と、なれば、趣味でも何でもそうだが、何かに出会ったらとにかくそれをよく吟味もしないでとりあえずその目の前のモノにのめり込むしか選択の余地はない。そこに他人がいれば、協力もすれば競争もした。つまり何はともあれ必死にもがいた。趣味しかり、恋愛しかり。

 つまり、古色蒼然とした言葉になるが、これが「縁」というものだ。

 何か電気製品を買うとしよう。入手できる限りのカタログを集めて(今だったらネットで情報を収集して)、機能、性能からデザイン、価格を比較検討して合理的に選択するというのと、店頭の大型TVに映し出されたニュースの内容が気になってちょっと足を止めたついでにふらりと店の中に入ってしまった電気屋さんで急に懐中電灯が目に留まったので触って見ていると店員さんが寄ってきてそれよりこっちの方が明るいよと勧めてくれた懐中電灯をつい買ってしまうのと、さて、どちらが賢明か?

 商品を選ぶという合理にかなっていると言う点では圧倒的に前者が賢明である。しかし、ちょっと考えてみれば、後者の構造というのは、今も昔も、人と人との出会いの構造そのものであることがわかる。

 昨今では、出会い系とかソーシャルネットワークシステムなどという、いわゆる、前者の構造を持った人の出会いがネットを通じて構築されてはいる。しかし、それらの出会いが合理的なるが故に実は何らかの大きなモノが欠落している感覚は、30歳台以上の人間なら誰もが持つ感想ではないか。

 モノに対して、人に対して、「縁」という要素が介入しない関係性。いや、「縁」は存在するのだが、その事を感じ取るのが困難な構造を持った関係性というものが、今日の認識論というか日常哲学というか、そういう概念の世界の主流になってしまっている事実。これも文化なのだろうか。

 このような文化に翻弄される人間達が作る社会に「夢」などあるはずもないではないか。いわゆる、自己実現でさえ数値化されるような社会に本来の自己実現が可能であるはずもなく、人間の幸福は本能的な衣食住と性の分野に押し込められてしまうのだ。いわば、文化の原始回帰というか、あるいはずばり退化が進行しているのだとは言えまいか。

 音楽もしかり。CD屋の店頭では音楽をヘッドホーンで試聴し、ネット配信では何秒間かのサンプル音源を試聴し、あふれる情報を収集してからCDなりダウンロードなり自分の環境に適した製品を購入する。実際に購入した音楽を鑑賞する段になって行っている作業は、あらかじめ収集した情報の確認作業になり果ててしまう。これは、音楽を聴いているのではなく、音楽という情報を聞いているに過ぎない。

 ああ、「ジャケ買い」したLPを家に持って帰って恐る恐るそのレコードに針を落とす、あのロマンはいづこへ〜。

<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・このところボヤキねたが多いな。あまりボヤいてばかりいるとますます老けこんでしまう。あぶないかもしれん。> 

               *****

 

 

2009年1月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ ごく個人的2008年のベスト体験
■                          field 洲崎一彦
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 また、このテーマの季節がやってきました。皆様、あけましておめでとうございます。昨年後半から暗いニュースが続いていますが、どうか今年は厳しい中にも夢や希望が持てる世の中になっていって欲しいと心から願っています。今年もよろしくお願いいたします。

 さて、昨年を振り返ると、field としては有名所のアイリッシュミュージシャンのご来店というような祭りもなく、淡々と時が過ぎたような印象があるが、実は個人的には音楽的に色々な流れがあったのだった。ベスト体験というにはちょっと大げさだが個人的音楽生活にはちょっとした節目になった1年だったかもしれない。

 まずは、1月に、field STUDIO でエンジニアを担当していたA君が郷里の北海道に帰って行った。これを機に、私は一時はオタクのような執拗さでレコーディング技術を勉強した。サンレコ(サウンド&レコーディングマガジン byリットーミュージック)片手に自分のスタジオで実験に次ぐ実験。果てに、A君の残していったレコーディング・システムは相当の訓練を積んだ職人芸がなければ使いこなせないことが判明。少し機材も補充して自分なりのシステムを組み上げることに没頭した。

 ここで実感したのは、良いミュージシャンだけでは良い音源を作ることはできない、と言うことと、しかし、良くない音楽をレコーディング技術で良い音楽にすることは不可能だ、と言うことだった。例えば、うまいミュージシャンが必ずしも良いステージをするとは限らないという感じに似ていて、やはり、表現には技術プラスアルファが必要であり、だからこそ面白いということだった。

 そんな方面に入れ込んでいたこともあり、気がつくと音楽を演奏するという立場の自分がどこかに飛んで行ってしまっていた。昨年の新年号に興奮と共に書いた、バンソウズというユニットも春を待たずして自然消滅したし、5月にCDを作ったロックバンドの方も2人のメンバーが遠方に転居したことで事実上活動停止。

 field のパーティー等で定期的に遊んでいたユニットもなんとなく終わってしまって、結局は週2回の field セッションだけが楽器を弾く場として残されたわけだ。

 セッションはセッションで楽しいものではあるが、クリエイティブな欲求を満たすにはちょっと違うという面が多い。というわけで、夏を過ぎた頃には私は自分が音楽的に非常に中途半端な位置にいることを猛烈に自覚した。

 というわけで、前々回にここに書いた、功刀丈弘君とのデュオユニットである Oldfield の復活が、タイミング的にも内容的にも、私の昨年のアイリッシュ音楽ベスト体験であると言っても良い。

 11月から週2回のペースで始めたセッションライブは年が明けた今もまだ何とか続いている。平日水曜日の午後10時という不便な時間なのでお客さんが殺到するということはないが(今や有名人の功刀先生なので、基本無料のセッション・ライブなんかしたらとんだ混乱が起きるのではないかと少しは心配だった)、逆に、普通のライブと違ってオーディエンスにお届けする演奏と言うよりも自分たちのリハビリに目的を集中できるのも良い結果を生んでいる。

 そして年末、このままCDを作ろうという話になった。

 考えようによっては、この為に今年前半に自分はレコーディングオタクになっていたのかもしれないと錯覚してもおかしくないようなオチである。

 しかし、お互い基本に戻ってアイリッシュへの回帰、が Oldfield 復活の発端だったにもかかわらず、いざ、CD作ろう!という作品作りの視点で、ああでもないこうでもないと盛り上がってしゃべっているうちにどんどんアイリッシュから離れて行ってしまう。

 気がつくと、傍らで功刀君はPCをたたきヤフオクでエレキギターを探している!などというご機嫌な脱線ぶりなので、こちらもついつい、トーカイやったらファイブスターやろ!(往年のヘビメタ変形ギター)などと突っ込みを入れてしまうのだ。

 われわれは、最終的に2人になってしまったからアコースティックに専念するようになったが、元はと言えば、私が彼と一番最初に一緒に音楽をやったのは20年近く昔になるがケイト・ブッシュのコピーバンドだった!つまり、お里が知れようてなもんなのである。

 さて、このCD。現在、制作に取りかかったばかりで、いつ出来るのかも皆目検討がつかないが、こんな調子なので、出来上がってみないとジャンルも特定できないというところで本人たちが一番「ほんまに出来るんかいな?」と半信半疑で取り組んでいるのだが、もしも、奇跡的に完成するようなことがあれば、出来次第ではもう少しカッコ付けよう思うので、その時は皆様よろしくお願いします。

<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・寒い時は弦楽器はなんか嫌ですね〜。> 

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