2007年12月
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■ field どたばたセッションの現場から
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■ ビートから見たTREAD
■ field 洲崎一彦
■─────────────────────────────────ケルティック・クリスマスのイベントで来日していたTREADは、チーフタンズのツアーメンバーである若手ミュージシャンとダンサーが結成した新しいバンドである。
私は今初夏に来日したチーフタンズをあいにく見逃したので、とにかく私のまわりでは評判の良かった、ハープのトリーナ・マーシャル目当てにライブ会場に足を運んだのだった。京都で単独ライブをやってくれるということでもあるので、この時とばかりアイ研練習会の若い連中をぞろぞろ引き連れて行った。彼らは本場のアイリッシュ音楽の生演奏にほとんど初めて接するというような事情であったわけで、彼らが受けた衝撃が一緒にいるこちらにもモロに伝わって来るという、いわゆる共体験の妙を久しぶりに味わった。これは、感動にどんどん鈍感になって行く、われわれオッサンには非常に重要な体験だった。
元、パンクス野郎は
「ダンスがメロディーになっとる!」
というような名言を吐くし、ホイッスル歴数ヶ月の20歳娘は
「同じメロディーなのに・・・、ぜんぜんちがう・・」
と、ため息をもらす。いわゆる、マニアさんではないこういう若者達のというか、普通の若者達の普通の感動というのは横にいるだけでこちらにもヒシヒシと伝わって来て非常に新鮮なんである。
彼らにはまったくと言っていいほど、この目の前のバンドに対する予備知識も先入観も過大な期待もなく、ただその時目の前で演奏が始まったという状況で心を動かされている様はやはりなかなかの景色なのだ。そんな彼らを横目に、自分自身の動機不純な耳を恥じるというか何というか、とにかく少なくとも、今夜は彼らに対して、このTREADの演奏のビートがどうだったかとか、ノリがどうだったかなどの話は一切やめておこうと強く思うのだった。
その代わりに、というわけではないが、今回はこの場でその手の感想を吐き出そうと思った次第。
私も彼らのプロフィールをあまり認識しておらず、フィドルのジョン・ピラツキとダンスのネイサン・ピラツキがカナディアンであるということ。ハープのトリーナ・マーシャルは現チーフタンズのメンバーで、ダンスのキャラ・バトラーがリヴァーダンスで有名なジーン・バトラーの妹さんであるということぐらい。それに、ギタリストがこの来日メンバーではCDのメンバーとは代わっていてマーク・サリヴァンというお兄ちゃん。この人の出自等はまったく知らない。
それだけに、比較的先入観なくそのサウンドのみに耳を傾けることができた。まず、目を(耳を?)引いたのが、フィドルも弾くギタリストのマーク・サリヴァン。彼がアイリッシュなのかカナディアンなのかは知らないが、彼のギターの構え、身体の揺れ、繊細なピッキングのタッチ、その他もろもろが、ハウゴー&ホイロップのホイロップを彷彿とさせる強力なヨコノリを感じさせたこと。この兄ちゃん、何者なんだ!という印象。
フィドルのジョンは場合によってはダンスに参加するから、このバンドの音楽アンサンブルとしては、ハープ、フィドル&ギターのトリオ、あるいは、ハープ&ギターのデュオということになるわけで、これはこれで非常に異色。ダンスのステップをパーカッションとして考えたとしても、われわれ素人目には
「メロディー隊が弱いんちゃうの?」
という感じなのだが。
前述の元パンクス野郎の言った
「ダンスがメロディーになっとる!」
というセリフは、このあたりが言い得て妙というか、私たちが普段メロディーとして解釈しているものの枠が完全に取り払われているのがこのバンドのオリジナリティーなのだと思う。
ダンスのネイサンとキャラも一見して動きが違うので、ダンスの流派としてもまったく違う出自なのだろうが、ネイサンと弟のジョンのダンスはぴったし「同じ村」のそれであることがはっきり分かる。また、ナゾのヨコノリギタリスト、マークを挟んで、トリーナのハープとジョンのフィドルはこれがまた全く違うビート感で演奏される。
トリーナのハープはさすがに評判通りの流暢さで、恐るべきはそのビート感だった。ハープ1本で奏でるリールやジグなどのダンスチューンでのスウィング感はもはや奇跡的だと言ってもいいぐらいなものだ。ハープでこんな演奏ができるものなのか!
しかし、ハープで始めたチューンにジョンのフィドルが重なった瞬間にそのスウィングが消えて無くなりジョンの極端にアクセントが効いた明るいトーンの世界が広がる。同じメロディーがこれほどまでに変わる。トリーナの演奏はどこかに陰りのある内側に向かう深い揺さぶり、ジョンの演奏は陽光の降り注ぐ飛び跳ねたくなるような明るさ。良きも悪くも常にこのビート感の違いは舞台上で火花を散らせている。そして、この音楽隊に呼応するかのような、2人のダンサー、ネイサンとキャラが少々趣の違うダンスなわけで、このグループはビート的には恐らく、トリーナ、キャラ組とジョン、ネイサン組にキレイに分かれているように思える。そして、それぞれをジョイントするのがナゾのヨコノリ兄ちゃんのマーク(ギター)というわけだ。
そういう風に観ると、アイリッシュ・チューンとカナディアン・チューンのそれぞれの主導権をどう受け持つかというだけに由来するアレンジや演出だけでは非常にもったいない気がしてきた。2組のビート感の違いを意識して使い分けたアレンジや、それぞれに呼応するダンスの演出が可能ならば、このグループのエンターテイメントはさらに爆発的に飛躍するだろう。
こんな、2組の独立したビート感を持つグループなんてそんなにあるもんじゃない。
ライブ後は、皆さん、field にお越しいただいてお決まりのセッションになったわけだが、興が乗った所で、ネイサンがおもむろにダンス用の靴に履き替えた。まわりがササッとスペースを空ける。突然、ブズーキを弾いていた私の目の前でネイサンのステップが炸裂した。
ダンス靴の靴底の金物が field の木の床を打つ衝撃もさることながら、彼自身からとてつもない波動が押し寄せて来る。ブズーキを抱える私はのんきにイスの背もたれに身を預けている場合ではなくなり、気がつくと身体はどんどん前のめりになり、アゴが上がって来る。突き動かされる、とはこの事だ。強力なヨコノリの波動である。この様子を傍らで見ていたアイ研練習会アシスタントの U さん曰く、
「すーさん、ソウルミュージックのベーシストみたいに、アゴがクイックイッって動いてましたよ」結局、この連中の真っ只中でギターを抱えたマークの、あのナゾのヨコノリはこういうわけだったのか! 突き動かされるのだからどうしようもないナ。
こんな強力なヨコノリと、大きく2種類のビートを併せ持つダンスバンド。いいなあ。私は若くはないけれど、こんな若手のバンドと一緒に活動できたらどんなに楽しいだろうという勝手な妄想を膨らませてしまった。
セッションはやがて収束し、私は、最後に残ったマーク・サリヴァンと固い握手をし、最大の敬意と共感をもって彼を送り出したのだった。
<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・何やら腰が落ち着かぬ雰囲気のまま年末になってしまった。しかし、ここまで来れば早く年が明けろ!という気分>
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2007年11月
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■ field どたばたセッションの現場から
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■ アイ研練習会のウソ
■ field 洲崎一彦
■ ─────────────────────────────────ここいらで、ちょいと話を整理しておこうと思う。前回、大仰な 自問自答で終わったのを受けてという意味合いも無いではないが、自分の頭も 整理しないと時々こんがらがるのだ。
field アイ研練習会は黙々と続いてはいるが、メンバーに してみれば、なかなかゴールの見えない練習というのも苦行のような様相を帯びてく るし、最近は、新しく参加する人もちらほら現れて、彼らのさまざまな期待感と先入観に戸惑ったりする今日この頃というのも大きい。現在、練習会は半ば「教室」のようなイメージでとらえられがち だが、元々この練習会は決して「教室」ではなかった。
時々、アイルランド本国からやって来るミュージシャンが私たちのセッションに参加してくれたり、そういうミュージシャンのステージに生で触れたりしているうちに、彼らの演奏はどうも私たちの普段のセッションの音と根本的に違うぞ、と、ぼんやり感じていたものがやがて確信になり、何がどう違うのかちょっとマジに考えてみようという2〜3人の人間の寄り合いから始まったのだ。この、2〜3人の寄り合いも、結局はそれぞれに音楽経験がまったく違っていたし、細かい話をすればするほど、アイリッシュというより音楽そのものの捉え方が各自ぜんぜん違うということが分かって来る。もちろんここでケンカ別れなどせず、ああキミはそういう風に感じるのか、オレはこう感じる、などと言って情報交換するわけだが、自分の「感じ」を説明するために持ち寄るCDの類がどんどんアイリッシュから離れていってしまうということもあった。
話がかみ合うためには、まず、共通の基準、共通の言葉(記号)が必要である。
「これってカッコイイでしょ?」
「なんとなく分かるけど、キミがカッコイイと言うてるのはこれのどういう部分?」とか、いちいちはっきりさせて行かなければ一歩も前に進まない。
元々、私はアイリッシュ音楽を聴くようになる以前にハンガリーの音楽が好きだった。そして、これらの音楽の演奏も試みた。しかし、演奏しようとすると何から何まで変なのだ。どうやっていいのかまったく分からない部分に次々にぶち当たる。想像もつかない。特に、そのうねるようなリズムには圧倒されて完全に白旗を揚げた。あきらめたのである。これが民族の音楽というものか!と思い知らされた。
その後、アイリッシュ音楽を嗜好し始めた時も、これは民族音楽なのだ、ということを肝に銘じた。だから、演奏するようになっても、自分達はあくまでそれ風の真似をしているのだ、本当にこの音楽を演奏することは自分達には不可能なのだ、と考えていた。
つまり、この音楽のことを、ある一定以上は深く掘り下げて考えようとしなかった。その方が気軽に楽しむには適していた。しかし、自分の店がアイリッシュ・パブになり、まわりに同好者たちがどんどん増えて来るに従って、色々なタイプの人間が目の前に現れた。
実際にアイルランドに行ってしまう人、定期的にアイルランドに音楽の勉強に行く人。膨大な音源や楽譜や資料を収集し研究にいそしむ人。逆に、アイリッシュのテイストだけ利用して自らのオリジナル曲や他の音楽活動に生かす人、等々。その内に、だんだん単にそれ風なことをやっているだけの自分たちには満足できなくなって来た。
そんな所へ、タイミング良いのか悪いのか、ふらりと我がセッションに来てくれた本場アイルランドの著名ミュージシャンの方々。彼らは私たちに多大な刺激を与えることとなり、冒頭に書いたような状況がやって来たというわけなのだ。だから、これは今でも確信している。アイルランド音楽のあの独特の演奏はアイルランドに育ち生活することなしに再現することは不可能だろうということ。
しかし、前述の、同じ疑問を持った人たちと、以上ののような交流を続けるに至って、この感じは以前ずっと若い頃に同じ様なことを体験したことがあるぞ、ということを思い出すのだ。黒人音楽は黒人にしかできない。この呪文のような台詞。
その時代は、音楽をやる若者は決まってこの問題を夜な夜な朝まで議論した。ジャズでありソウルであった黒人音楽は現在の民族音楽というものから見ると桁違いにその時代のポップ・ミュージックの中枢に鎮座していた(フュージョン、ブラック・コンテンポラリーを含む)。だからこそ、夢多き音楽好きの、特に演奏者指向の者はこれを避けて通ることができない問題だったのだ。
ジャズにはジャズの音楽理論があって、それを教える専門学校もたくさんあった。そういった情報も集めに集めた。が、主に機能和声とアドリブの関係を掘り下げるそれらのカリキュラムには明確な回答はなかった。おぼろげながらに分かったのは、問題は「リズム」にあるのだということだけ だった。ちなみに、今は知らないが、その頃のジャズ学校ではジャズの「リズム」に関してはほとんど何も教えていなかった。
そう。その頃の雰囲気を思い出したのだ。誰もが、それは日本人には本当は不可能なのだろうなと薄々感じつつ、でも、あきらめなかった、あの感じ。
ちょうどその時期、今ではジャズ界の大御所であるチック・コリアが、南米の民族音楽であるサンバ、あの強烈な独自のリズムを特徴とするサンバをジャズによって新しく解釈することに成功した。
同じく、ジャマイカのこれも独自のリズムを持つ民族音楽のレゲエを新鋭ロックバンドのポリス(来年早々に来日しますね)がロックによって新しく解釈して見せた。
ジャズになったサンバや、ロックになったレゲエは元の姿をそっくり再現するものではなかったが、閉じた民族性から一歩も外に出られなかったものへの道しるべの役割を充分に果たしていた。つまり、通訳を得たようなものだった。その後、サンバはジャズの重要なひとつのカテゴリーとして成立したし、レゲエは本家のジャマイカ産に立ち返って世界中で大ヒットした。
と、いうような、当時の諸々のことを思い出したのだった。
つまり、アイリッシュ音楽のこの何やら分からない特異性はリズムに注目することで何か解けるかもしれない、というわけである。
そんな折りも折り、ソーラスの生ステージを見る機会があった。生で観るソーラスは、まるで、ニューヨーク・ジャズのリズム感でアイリッシュ・ダンス曲を囲い込んで行くかのようなスリル感満点の演奏を繰り広げていた。瞬間的にひらめたのがチック・コリアのサンバだった。
これは、チック・コリアがサンバに試みたことと同じことがアイリッシュに対して行われているのではないのか。そんなこんなで、ああでもないこうでもない、とやっている内に、「ビート」という問題に行き着いたのだった。
たぶん、「ビート」は和訳すれば単に「拍」になるのかもしれな い。でも、習慣的に私たちが「拍」と呼んでいるものとは少しニュアンスが違うもの。ということで、私たちは「ビート」「拍」「リズム」等、音のタイミングを示す語の概念を明確に分けて定義することを試みた。こうなると、もうアイリッシュのアの字もない世界だが、そうしないと、まともに話が進まなくなってしまっていた。
一例をあげてみよう。
「拍」はその音楽が流れる時間のスケールであるとする。
「リズム」はその音楽のメロディーを構成する音のタイミングであるとする。
「ビート」はその音楽の刺激に反応して人間の中に生まれる躍動感であるとする。等々・・・、厳密には汎用概念とはズレているかもしれないが、用語の意味を限定しないと用語の使用そのものが誤解の連鎖を生んでしまうのだった。
そのうちに、私たちのこのような「研究」遊びに興味を持ってくれる人たちがちらほらと現れた。そういう人たちも積極的にどんどん巻き込んで行こうとしていたのだが、実は、このような「ビート」の概念が、それに特に注目した経験が無い人には、音楽の経験の如何(初心者、上級者)を問わずなかなか簡単に伝わらないものであることが分かって来る。
やがて、この場は誤解が誤解を生み紛糾していくことになって。そして、気が付けば最初の仲間までもが散り散りバラバラになってしまっていたのだった。このようにして、一時は終焉するかに見えたこの「研究」遊びも、やがて戻って来た仲間と再び復活し、この「ビート」の概念は実は「合奏」の基礎概念として初心者の練習に非常に適しているのではないかという、当初は予想もしなかった仮説が生まれたのだった。
そして、2006年2月に、アイ研アンサンブル練習会と銘打った練習会を正式にスタートさせることになったのである。だから、巷間でウワサされている、
「アイ研練習会は楽器を初めて手にした入門者用の練習会である」
「アイ研練習会はアイリッシュ音楽の秘密を解き明かしてくれる」
「アイ研練習会はアイリッシュではなくてジャズを教えている」
「アイ研練習会はリズム感を良くしてくれる」
「アイ研練習会はカルト集団である」
「アイ研練習会はエッチな話ばかりしている」というような話は全部ウソである(最後のはちょっと本当)。
現在、アイ研練習会は一見ワークショップか教室かというような体裁をとっているが、決して、誰かに何かを教えるというものではない。
この練習会を通じて私たち自身が上記の系譜から連なる「研究」遊びを続けているのである。
元々ジャズばかり聴いてた人が拍を取れなかったり、元パンクスが意外にもヨコのりを初めから持っていたり、本物のアイルランド人がテンポ キープに弱かったり、と予想に反する現実の人々が入り乱れる練習会の場は、 日々私たちの頭を混乱させ、ゴールの見えない私たちの「研究」遊びはこの先 も延々と続いてゆくのである。<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・何やら腰が落ち着かぬ雰囲気はなおも続く。このまま年末というのもちょっとナイなあ。>
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2007年10月
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■ field どたばたセッションの現場から
■ リハビリと社会性
■ field 洲崎一彦
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さて、夏の終わりのアイリッシュキャンプにて肝っ玉をすっかり抜かれてし まったわが練習会メンバーはその後どうなったのか。あれからだいたい1ヶ月 半経とうとしている今日この頃、その後の経緯を報告します。
一番アイリッシュ音楽経験豊富な男はとんでもない重傷に陥っていた。私は 君らそう悲観するものでもないよと言う意味で、アイリッシュ・キャンプのラ イブ中に回していたビデオを、われわれの演奏している部分だけ編集してメン バー達に見せたのだった。今考えると皆の落ち込みはこのビデオが原因だった のかもしれない。
経験者男は、その経験の長さの割には意外に自分が演奏している映像を過去 にほとんど見た事がなかったのだという。この男はこのビデオを見るや否や 「オレってあんなにカッコ悪いのか!」と絶句して頭を抱えたのだった。
これは実はある意味彼の個人的なショックであって、内容的には今回の練習 会メンバーのライブにはあまり関係がないと思う。しかし、目の前で自分より もずっと先輩の男が自分たちと一緒にライブをした映像を見て驚くほどガック リ落ち込んでいる姿。こんな空気が後輩達に影響しないわけがない。
なんかようわからんけど、おれらカッコワルイみたいや! という「空気」になる。
それからというものの、月曜練習会はまるで元気のない、音をただ義務的に 垂れ流す人間が集まったくらーい集まりと化し、これが何週か続くのだった。 元のビート基礎連に戻っても、というか、アイリッシュ・キャンプ以前にやっ てた所にすんなり戻れないのだ。忘れているというより投げている感じ。
ある意味、音楽やってるんやから人に聴いてもらってなんぼやろ。人に喜ん でもらってなんぼや。自分が演奏してそれを聴いてくれる人が喜んでくれると いう図式。それぞれの人間が思い描いていたこの図式が崩壊したのだ。
いや、決してライブ会場で拍手のひとつも起こらなかったわけではない。私 から見れば、まあ、最上級ではないけれど、皆、熱のこもった演奏をしたよ。 本気で拍手してくれた人も確かにいたと思うよ。
でも、彼らには、あのビデオの客観的映像がすべてだった。音も絵も、あん なカッコ悪いものは未だかつて見たことがないというような妄想が肥大してい た。
楽器を演奏するモチベーションなど消し飛んで当然。それでも、よく、練習 会には出て来たのもだとむしろ評価するべきかもしれん。
そこで、ある日の練習会では、無理に楽器を触ってもしようがないと思い、 それでは今日はイメージ・トレーニングをやろう!と言って、過去に field でやったいろいろな人のライブのビデオの中から、ビート感がまるで違うがそ れぞれにテクニシャンのフィドル、ホイッスル、ギターの、ちょっと興味深い トリオのライブ映像を鑑賞することにした。
経験者男がまっ先に口火を切った。
「このジグ、変!」 「え? どこが?」 「ほら、よう聴いてみい? フィドルとホイッスル」
一同聴き入る。
「同じメロディーやのに、同じメロディーに聞こえへん」 「確かに、ギターの人明らかに困ってますね」 「でも、フィドルの方が音がきついからギターはフィドルに合ってくるやろ」 「それで、ホイッスルはおいてけぼりか」 「でも、よう聴いてみ? ええ感じで揺れてるのは明らかにホイッスルやん」
一同、さらに聴き入る。
「あ。3人の足踏みがぜんぜん合ってない!」 「まだ、出てくる音の方が合ってるってどういうこっちゃ」
わいわいのがやがや
こんなビデオがあるんなら何でもっと早く見せてくれなかったんですか!? とまあ、しまいには矛先はこちらに向かうのだが、それはお愛嬌。彼らが、 音楽の話で生き生きしている姿が見れただけで正直ほっとする。
それからというもの、「イメージ・トレーニング」は大きな誤解と共に一種 の合い言葉になった。ある奴は以前練習会でジャズを取り入れたことを覚えて いて、この1週間ずっとジャズを聴いてイメトレしてました!などと言う。ま た、ある奴はこの期間に、メジャー・デビュー経験もあってもけっこう精力的 に活動しているバンドに偶然加入することになり、東京までライブしに行って 来ました! これもちょっとしたイメトレですよねと鼻息が荒い。
経験者男は、地味ながらプライベイト時の洋服の傾向を少し変えてみたんや けどわかりますか? とまあ、その重傷度合いを物語りながらも、それぞれの 考えるリハビリにいそしんでいる所が熱いのではあるが。 ある者はジャズを聴き、経験者男は洋服を変える。明らかに落ち込みの質が 違うのではないか。
・・・・違うだろうか。
今回、彼らを見ていて、私もいろいろなことを考えたし、強く感じたことが ある。この、音楽というものの微妙さということである。 ここでは皆職業音楽家ではないからこれはあくまで趣味としての話であるの だが、こと音楽は往々にしてこの趣味の軽さを越えてしまう。趣味としての音 楽の楽しみ方は人それぞれであって良いのだが、個人個人にとってそれは時と してとても重いものとなるということだ。
音楽が楽しいのは何故か。自分は何が楽しくて音楽をやるのか。それが本当 にひとりひとり違う。全く違う。 何よりも自分が気持ちよくなりたい場合もあれば、他者を気持ちよくさせた い場合もある。唯我独尊の能動的姿勢もあれば、需要に喜びを見出す姿勢もあ る。どちらに片寄ってもこの趣味は重くなる。
需要の快感はつきつめれば、人からどう見えるか?に行き着いてそこで止 まってしまう。だから、洋服を変える心境もまったく的はずれではないのだ。 ともに喜んでくれるべき人がひどく落ち込む姿を見てその空気に支配される ことも方向は違えど需要の疎外である。つまり、彼らの落ち込みの内容は同質 なのだとは言えないか。
アイ研練習会の姿勢はこれまでこの需要の問題を全く無視してきた。この音 を出してその本人が楽しいのかどうか、この一点だけを問うて来た。しかし、 人によっては音楽行動に付随するこの需要の問題は常に非常に重い。その、時 として重いものを、アイ研練習会は「ビート」という凶器で切り裂いているの かもしれない。 その不穏な雰囲気を察知してか、中級者以上の連中はいつしかこの練習会に 見向きもしなくなった。
見栄っ張りだの、ええかっこしいだの、自意識過剰だの、他の社会的場面で は適応が許されないこれらに内在する一種の快感は、こと表現活動に於いては 簡単に許されてしまう、あるいは、要求すらされてしまう。これは人間の心理 的健康には大きな問題である。しかし、この需要が、ある人の社会性をかろう じて支えている場合もある。言い方を変えれば、音楽への心理的依存がその人 間の精神的健康をかろうじて支えているケース。
これを、切り崩してしまうことは非常に残酷かつ危険なことなのではないの か。
つまり、彼らの落ち込みは私に深いテーマを投げかけた。
アイ研練習会に社会性はあるのか、という深い深い自問自答が私の中で始ま ろうとしている。
<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・何やら腰が落ち着かぬ今日 この頃。何らかの転機が近づいて来た予感やもしれぬ。>
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2007年9月
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■ field どたばたセッションの現場から
■ 練習会メンバー初めての実戦配備
■field 洲崎一彦
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話はひょんなことで始まった。 毎年、滋賀県の高島市山中でおこなわれているアイリッシュ・キャンプとい うイベントがある。数年前からわれわれも field アイ研としてまとまって申 し込んで参加している夏の恒例行事だ。
これが、毎年そうなのだが、今年は特にアイ研内部に対しての参加募集の案 内が遅れ、また、参加者の確定が遅れに遅れてしまった。いつも決まって主催 者の方に何らかのご迷惑をおかけしているアイ研なので、今年はせめて締め切 り日までにすぱっと申し込みたい。それで、少々見切り発車の申し込みとなっ てしまった。
このイベントは、初日に、キャンプ場のホールを借りて演奏会を行うのであ るが、これはあらかじめ申し込んでおかなくてはならないわけで、まあ、以上 のような経緯もあり、われわれは誰が演奏するのか、というのも不確定なまま この演奏会出演も申し込んでいたのだった。 というわけで、ご想像のとおり、あれやこれや紆余曲折あって、われわれア イ研月曜練習会のメンバーでユニットを組んでこれに出演しようという流れに なってしまったのだ。
なぜ、「しまった」のかというと、この3ヶ月ほど、この練習会はぜんぜん 内容が進んでいなかったのだ。課題曲も3曲1セットのみ、欠席者多数という 状況だったわけで、こうこうこんな所でワシらは演奏することになったぞ!と 全員にくまなく速やかに伝えることさえままならない有様。では、このメン バーで行こう!とメンバーが確定したのが2週間前、1セットでは1ステージ には足りないということで、曲をあと2セット増やして、それをメンバー全員 に伝えたのが10日前。そして、1週間前の練習でこの3セットを最後まで演奏 できた人間が4名中約1名!
こうなると、この最後の1週間は、月曜日だけ集まるなんて言ってはおれず、 それぞれ時間のある時はちょっとでも顔を出せ!という大スパルタ特訓体制に 入ることになる。
これまで、この練習会は、それぞれ各人がセッションなりバンドなり普段の 活動の場を持っていて、そういう環境の人達に対する基礎練習をビートという 切り口で追求するというスタンスだったわけなので、実践(まあライブです ね)向きの練習はまったくしていなかったのだが、ここへ来て、そのことが大 きくクローズアップされてしまったのだ。
個人個人のビートの感じ方や、合奏の中でここはこうなるというような理屈 は入っているものの、では、実際に力量や経験に差のあるここのメンバー同士 で合奏するとどんなことになてしまうのかを、甘く見ていた。
結論から言うと、1週間前の演奏は、それはもう目を覆わんばかりのもの だった。これまでの練習方針そのものがぐらつくほどの現実が目の前に明らか になった。練習会の存在意義そのものが大きくぐらつく激震だった。
まず、大きな誤算は、現状でこの練習会に通って来る人達はこの時期特に他 の音楽活動の環境をコンスタントに維持している人がほとんどいなかったこと。 つまり、ほとんどの人が、週に1回のこの練習会と、せいぜい翌日の field セッションに参加するぐらいなもので、どう考えてもこの他の時間に楽器を 触っているなどととても想像できない環境にいたのだ。
つまり、どういうことかと言うと、他に練習や演奏する機会をコンスタント に持たずして、この練習会だけでシコシコ楽器を弾いた場合の副作用というも のがあり得た!ということが判明したのだ。
この練習会では、これまで楽器を演奏するにおいて「それ」を意識していな かった人に対して、その人の楽器経験や演奏技術の上下にかかわらず、「そ れ」を意識するということを、楽器演奏の練習過程においてどのように把握す ることができるかを共に研究し練習する。また、さらに、この練習を合奏アン サンブルにどのように生かして行くか、ということを主旨としている。
そして、現メンバーは、それまでの楽器経験の長短にかかわらず、個人差は あるものの、だいたい、「それ」を意識することの必要性を理解するという段 階まで来ている。つまり、では次にこれをいかに把握するか、という段階なの である。
これまでの、この練習会は、途中で去って行った人も大勢いるし、途中から やって来た人もいる。その、それぞれの経緯を細かく思い起こせば、「それ」 の必要性を理解するということは、これまで「それ」を意識していなかった人 にとっては、これまでの自分の音楽経験で培ったものを一旦破壊せねばならな いに等しい発想の転換を迫られることが多かった。
「それ」とは、「ビート」である。
従って、現状のこの練習会メンバーは、それぞれ経験の長短はあれど、とに もかくにも、その音楽経験で培ったものを今まさに破壊している最中であると 言うこともできるのだ。
そして、この段階で、人前で演奏するユニットを組む。これは、実は非常に まずい作業なのであった。高校1年生にいきなり難関大学の受験問題を課して、 やる気を喪失させるかの暴挙であったのだ。 思い起こしてみると、昨年の練習会で脱落して行った多くの人々がこのメカ ニズムに乗ってしまったことを今更ながらに思い出す。
昨年の参加者には音楽系サークルに所属する学生が多く、その意味では普段 活動する音楽環境をきちんと持っていた。しかし、夏も過ぎる頃になると所属 サークルの秋の催事のために急遽バンドやユニットを組んで促成栽培を余儀な くされることとなり、あろうことか、彼らはそのバンドのメンバー全員引き連 れてこの練習会に参加したのだ。しかし、ここは、バンド促成栽培所ではない。
むしろ、唐突に、 「メロディーを奏でてはいけません」 などと言われるのだから・・・
とりあえずは、2〜3曲のレパートリーを持っていたバンドも息の根が止ま るというものだ。
うーん。どうするか・・・。何も触らずにこのままキャンプのステージに 持って行くのが練習会としては正論なのだが、現練習会メンバーの息の根を止 めることにもなりかねない冒険になるのは火を見るより明らかである。
思案した結果。1週間でまさにバンドの促成栽培をやることにした。
よし、全員集合。とりあえず、キャンプの演奏が終わるまでのこの1週間は、 これまでやってきた練習を全部忘れること。そして、今から説明する練習だけ やるので、火曜日、水曜日、金曜日の夜に来れる人だけでいから集まること。 まず、課題の3セットを全曲、不正確でいいから超高速で演奏する。これだ けに集中せよ。その他の事、たとえば、これまでやって来た「ビート」なんて 言葉もすべて忘れること!
なんせ、人前で演奏するのが初めてだというメンバーもいるのだ。初陣は戦 術よりもまず突撃精神しかない。
そして、前日の金曜日の練習で、本番用のテンポに落として翌日の本番に挑 んだのだった。
キャンプでの本番は、このメンバーに東京のOさん、去年まで練習会メン バーだった現神奈川在住のKくんを加えての演奏となった。ある意味、この2 人は助っ人でもあった。
では、出来はどうだったか。そりゃあ付け刃まるだしだったよ。ただ、厳し い練習をして来たんだという気迫だけは伝わったかもしれない。和気あいあい としたキャンプのムードにはそぐわなかったかもしれないけれど、まあこれも よし。存在感だけはあっただろう。
しかし、それにしても、キャンプ後だ。メンバー達はすっかり落ち込んでし まった。各人にしてみれば、まったく駄目だったようなのだ。ひどく落ち込ん でしまった。 考え方によっては、1週間前まで通して演奏できなかったことを考えると、 ある意味よくやったわけなのだが、当の本人たちが敗北感にさいなまれてし まったのだからどうしようもない。
ああ。彼らの音楽モチベーションはこの先、健全に復活してくれるだろう か・・・。
<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・新規スタートの第二部=火 曜練習会参加メンバーがあっという間にひとりになってしまったよーん。>
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2007年8月
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■ field どたばたセッションの現場から
■ 「ビート」感が悪いということ 3
■field 洲崎一彦
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これまでは、音楽を演奏する側から見た「ビート」の問題ばかりにこだわっ て語って来たが、今回は少し趣向を変えて、音楽を聴く立場から見た「ビー ト」の問題を考えて見ようと思う。
「ビート」感のある演奏と「ビート」感のない演奏の違いはリスナーにはど のような違いとなって現れるのか?
はっきり言えることはひとつしかない。「ビート」感のある演奏を聴くと自 然に身体が動く。
ただ、ここの所は非常に微妙なのだ。そのリスナーが何を求めて音楽を聴い ているか、ということ。個人個人の満足度は、もう、このことに尽きるからだ。
以前にもここに書いたが、音楽の中にある「ビート」感は絶対値ではない。 ある人はこの音楽を聴いて身体が動いてしまうが、ある人は全く退屈な時間を 過ごしている。という現象は普通 にある。
むしろ、「ビート」はその音楽に絶対的に存在するのではなく、その音楽を 聴くリスナーの中に生まれると言ってもいい。
以前、友人に、ビートルズが大好きで、ほぼ、音楽は積極的にはビートルズ しか聴いたことがないという奴がいた。積極的というのは自分でCDを買うとい うような意味で、普段、TV等から流れてくるのを聴くというのは含まれない。 念のため。
その彼に、では、こういうのはどうか?と、ハードロックやフュージョンな ど、いわゆるノリのある音楽を色々聴かせた所、彼は見事に眠りに落ちるのだ。 キメキメのセクションなんかで、こういう所で「ゾクッ」と来るやろ?と 言っても、「いや、別 に」という反応なのだ。でも、彼はビートルズが大好き で、自分では音楽好きだと固く信じている。
では、ビートルズは「ビート」感がない音楽かというと、ある、でしょう。 ハードロックやフュージョンのようにことさら「強調」されているわけではな いが、どう考えても「ある」。 でも、この「ある」「ない」が絶対値ではないというのがややこしい所なの だ。例えば、普段からクラブに通 いつめてるようなハウスやヒップホップ大好 き少年に、ビートルズで踊れるか?と聞けば、NO と答えるかもしれない。
これこれの音楽には「ビート」感があるか?とか、誰々の演奏には「ビー ト」感があるか?というような質問をたまに受けることがあるが、答えられる のは、あくまで、私の中に「ビート」が生まれるかどうかという個人的な感想 しか言えない。客観的には、「ビート」を感じる人もいれば感じない人もいる、 といしか言いようがない。
よく、クラシック音楽には「ビート」感などというものはないでしょう?な どと問われる。確かに、演奏者にはそういう概念はないかもいしれない。しか し、現実にはクラシック音楽に「ビート」感を見出すリスナーは大勢いる。
また、「ビート」感とひとくちに言っても、これは概念であって、その内容 にはさまざまなものがある。黒人音楽の「ビート」感と日本民謡の「ビート」 感は明らかに違う。でも、その概念というか、音楽の要素を色々に分解して行 くと同じカテゴリーに入るものがあるというわけである。この部分が気になる か、気にならないか、という話である。
リスナーの楽しみは実に無限大だ。美しいメロディーを追うことが至上の喜 びである人もいるだろうし、和音のハーモニーに恍惚を覚える人もいるだろう。 いや、歌だ!人間の肉声こそ美しい!という人もいるだろうし、リズムに突 き動かされる躍動がなければ物足りないという人もいるだろう。
例えば、音楽の3要素と言われる、「リズム」「メロディー」「ハーモニ ー」は、演奏者側に立って考えると、この3つはそれぞれに独立したものでは なくて相互に密接な関係を保ちながらバランスされなければならない。 が、リスナーという立場ではもっと自由で、例えば「メロディー」だけを抽 出して楽しむ!ということが充分に可能なわけだ。 そして、それぞれの楽しみ方は、まさにそれぞれの楽しみ方なので、他者は 全くこの個人的分野に口を差し挟むことはできない。
ただ、上記に微妙なヒントがある。音楽の3要素を、演奏者は個々の独立し たものであるかのように扱うことはできない、という箇所だ。 この3要素のバランスを考慮しない演奏は自ずから「リズム」「メロディ ー」「ハーモニー」の全てに何らかの破綻が生じる。非常に微細なものかもし れないが必ず生じる。
ということは、たとえリスナーが、例えば「メロディー」だけに的を絞って 楽しんでいる場合であっても、そういう演奏は必ずその「メロディー」の部分 にも何かしらの破綻が生じることになる。
そして、問題の「ビート」感という概念は、一見「リズム」の要素に含まれ るかのように思えるのだけれど、例えば、「リズム」「メロディー」「ハーモ ニー」をバランスするためのひとつの重要なツールにんるのではないか、とい うのが、私の考え方だ。 つまり、「ビート」感が意識されない演奏は、このバランスを崩している可 能性が大きいというわけだ。
このようにして、「ビート」感はその音楽そのものの躍動はもちろんの事と して、もうひとつの大きな印象の違いを作り出している。
平たく言えば、「ビート」感のある演奏は「くっきり」した印象であって、 複数の楽器音が「すっきり」まとまって聞こえる。逆に「ビート」感のない演 奏は「のっぺり」していて、複数の楽器音が「ばらばら」に聞こえる。
と、いうことは、音楽のいかなる要素に喜びを見出しているリスナーにとっ ても、この「ビート」感という問題は、
「私は、音楽に身体を揺らせるような趣味はないから」
では、済まされない話なのではないか。
今回は、リスナーの皆さんに対する、ひとつの問題提起という形で、終わる ことにする。
<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・アイリッシュミュージッ クって一時に比べてどうなんでしょ? 流行は完全に終わりましたかね?>
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2007年7月
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■ field どたばたセッションの現場から
■ 「ビート」感が悪いということ2
■ field 洲崎一彦
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前回は、あるアマチュア・ロック・バンドのレコーディング風景から、無理 矢理にビートの話に持ち込もうとした割には内容が中途半端というか不親切 だったみたいです。
ちょっとちょっと、「ビート」って、いつも吠えてるのは「躍動感」とか 「グルーヴ」とか、そういう部分に関係した話ちゃうのん? 突然、合奏の話 にこじつけられてもワケわかりません。
というわけですね。確かに言葉足らずでした。 まず、再確認しておきたいことがあります。
現在の通称「月曜練習会」、 fieldアイ研練習会が立ち上がった昨年2月の開始時点で、この練習会は「ア ンサンブル練習会」と称して始まったのです。皆もう忘れてると思うけど・ ・・。 つまり、「アンサンブル」、合奏ですね。合奏について練習しようというの が目的だったのです。
で、始めてみると、え? 皆さん、「拍」とか「ビート」とかの概念をどう いうふうにイメージしているの? ということになった。 それで、どうやって「合奏」するつもりなんよ?! という事態になって 行って、じゃあ、ノリってわかる? わかるよね? ダンス・ミュージック やってるんやから。・・・・・・。
というような所へどんどんハマって行く。そして、1年後には私自身最新式 メトロノームをあらためて購入せざるを得ないというような世界にまでなって いた。
つまり、この練習会は開始時点から内容が進むのではなく、逆行して行った とも言えますね。それって、集まって来たメンバーの質が悪過ぎたんちゃうの、 という疑問を抱く向きもあるかもしれませんが、こちらも、元々そんな質なん て期待していないし、あえて、初心者であればあるほど歓迎!という姿勢を明 確にしていたわけですから、明らかにこちらの読みが狂っていたということで すね。
そして、彼らから逆に教えられたこと、発見したことが非常に多々ありまし た。そのひとつが、 「多くの人が、メロディーだけを頼りに音楽を演奏し、合奏し、あるいは、 鑑賞している」 という事実でした。
最初は、私は、この現象はアイリッシュ・ミュージックというやや特殊な ジャンルの音楽のせいなのだろうかと考えていました。この、それほどポピュ ラーでもない民族音楽を、この日本に居て演奏してみようと思い立った機会を 持つ人々というのは何か共通 の環境や過程のようなものがあって、そのことに よって特徴付けられる要素があるのではないかと考えたのです。
アイリッシュ音楽で使用する代表的な楽器。例えば、イーリアン・パイプス などはいかにも特殊で日本では入手すること自体が大変。となれば、やはり、 フィドルやフルートが花形になりますね。と、すると、これは、バイオリンと フルートと言うことは日本では完全にクラシック音楽専用楽器の趣が強いわけ です。つまり、クラシック音楽の出身者が多い。と、まあ、こういうわけでは ないかと考えた。
しかし、そういう部分に注目しながら色々な人に話を聞いてみると、これが 案外、皆が皆クラシック出身というのでもなかった。ロックやパンク出身とい うのも割と多いし、他の民族音楽、フォルクローレや日本民謡というケースも けっこうある(確かに、ジャズをやっていたという人は非常に少ないというの はありますが)。
そんなことに考えを巡らせていた矢先に、前回のロックバンドの兄ちゃん達 の録音風景に出くわしたというわけです。
あ。こいつら・・・、練習会の奴らと一緒やん・・・。って。
私にしてみれば、それはそれは面白い発見であったのですね。まあ、同時に 失望感も大きいのですが・・・。
さて、この具体的な部分について、少し補足します。合奏の話です。
ひとくちに「合奏」と言うけれど、それは個人個人の意識の中でどのような 作業を行っているかという問題です。合奏自体は小学校でリコーダーやハーモ ニカを教材に皆が子供時代から経験しているのでそりゃ無意識にやってしまっ ているのでしょうが、では、小学校の音楽の時間に「合奏のやり方」を教えて もらった記憶がありますか? だいたいが「はい! みんなで一緒に演奏しましょう! いち!にの!さ ん!」てなもんでしょう。
私はクラシック音楽の専門教育のことは全く知りませんが、そういう所では どうなのでしょう。「合わせ方」とかやるのでしょうか。これは、経験のある 方はどうか私に教えてください。
ジャズ・スクールのことは少し知っていますが、やりませんね。アンサンブ ル・クラスというのがあっても「どうやって合わせるか」というカリキュラム は、少なくとも昔はなかった。良い講師にあたった勘の良い生徒が「スウィン グ」ってこんな感じなのか、というようなヒントを得ることができるのが関の 山。
では、音を合わせるという作業は、人間の本能的な作業で、持って生まれた 素養に頼るしか無く、修練によって獲得しうる技術ではないのか。 これには色々な意見があると思います。それを教えないジャズ・スクールで は「修練によって獲得しうる技術ではない」と考えているからこそカリキュラ ムが存在しないのでしょうし、いやそんな事はない、私は訓練によって合奏技 術を学んだ。と言い切る人もおられると思います。
前者の立場を取れば、「その」素養が一種の「音楽の才能」ということにな り、「才能」のない者は淘汰されるでしょう。 後者の立場を取れば、「その」「才能」は修練で獲得しうるものだから「才 能」などと呼ぶべきではなく、サボらずにせっせと練習しましょう、というこ とになります。
私は個人的には後者の立場をとりたいと考えています。
簡単に言うと、合奏。人と一緒に音楽を演奏する作業というのは、楽器を演 奏している人同士の時間感覚の一致をはかる作業です。 そして、この作業の「やり方」というのは、相手の感じている時間の未来を 予測することです。ただそれだけの作業です。
で、多くの人々が、この「予測」に、その音楽のメロディーを利用している、 あるいは、メロディーしか利用していないのです。 しかし、メロディーに依存した予測では精度が非常に低いのです。この精度 を上げることが「合奏」の技術を上げることです。
そこで、メロディー以外の何か基準というか手がかりが必要になるでしょう。 それが「ビート」の一番重要な役割です。
そして、このような合奏には、嫌でも結果的に「躍動感」が伴うことになり ます。
<すざき・かびすこ:Irish pub field のおやじ・fieldアイ研月曜練習会は 初心者対象の第二部=火曜練習会がスタートしました。>
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2007年6月
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■ field どたばたセッションの現場から
■ 「ビート」感が悪いということ
■ field 洲崎一彦
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さて、前回は思いっきりスネ気味の私でしたが、今月もちょっと引きこもり 気味でスタートします。ちょっとスネ気味の私は、この際、アイリッシュは ちょっと置いておいて、他に気を散らせてみたわけです。
field スタジオで、 あるアマチュアロック・バンドのレコーディングが行われていたので、この様 子をずっと見ていたのですね。
普通、ロック・バンドのレコーディング作業というのは、今では、まず、ド ラムとベースが一緒に演奏したものを録音して、これを下地に他の楽器やヴ ォーカルを後から重ねて録音して行き、最後に各のバランスを取ったり音色加 工(エコー等)をして左右のステレオ音源に整えるという過程が一般的です。 楽器が上手い人たちはこういった段取りで苦もなくさらっと演奏できるので すが、そこはアマチュア・バンドともなればメンバーの中に上手い奴もいれば 下手な奴もいるわけです。
この時、レコーディングしていたバンドは私もライブ演奏を聴いたことがあ る連中だったのですが、まあ、そんなに上手くない。けど、どの楽器が特別に 下手でどの楽器が特別 に上手いというのがパッと分かるほどでもなく、可もな く不可もなしという感じの平均的なアマチュア・ロック・バンドです。この連 中がレコーディングしているというので興味津々ではないですか!
駆けつけてみると、そこは、ドラムとベースの録音現場。普通は「クリッ ク」という言わばメトロノームの音をヘッドホンで聴きながらドラムとベース が演奏するというようなことをします。基本的に一定拍で出来ている曲はこう いう方法でドラムとベースは拍を一定に保つわけです。が、普段のバンド練習 というのは言ってしまえば「せえ〜のっ! ジャカジャーン!」っていうのを 何度も何度も反復練習しているわけですから、いくらやり慣れた曲だと言って もメトロノーム聴きながらなんてやった事ないわけです。
初心者の時にくそ真面目に練習した奴は、ドラムやベースならば一度はメト ロノームに合わせて、なんて言う練習を当然のようにしているでしょうが、 ロック畑の兄ちゃんにはこういうタイプはごくわずか。たいていが、メトロ ノームに合わせるのなんか生まれて初めてなのでとてもこれで演奏なんてでき ないという事になるのですね。
じゃあ、クリックの音をいつも聴き慣れているドラム・セットのスネアの音 にしてみようか、とかバスドラの音にしいぇみようか、とか色々工夫するんで すが、これでも実際にやってみるとドラムの兄ちゃんはどんどん先に行くは ベースは逆に遅れて来るし等というハチャメチャな事態になってとても最後ま で演奏できない。それで、じゃあテンポ・キープはあきらめて2人だけで合わ せてみようかー、という段になって、やっと彼らも安堵の表情を浮かべながら 開放感豊かにノリノリに演奏し始めるのですが……録った音を聴いてみてがく 然とするわけです。
合ってない。本人達ノリノリだったのに……、こんなにも合ってないことに 初めて気が付きます。何で? バンドの練習も時々MDで録音しているし、ライ ブもきっちり録音して聴いているのに、こんなに合ってなかった事は一度もな かったぞ。本人達、ちょっとだまされたような気分になってます。でもね、ド ラムとベースの2人だけで演奏したことなんて初めてだったのですね。
では、と、レコーディング作業を打ち切って、俺らもう少し練習してからレ コーディングやり直します、とか言える奴らならまだいいのですが、スタジオ も押さえたし、他のメンバーはにらんでるし、どうしよう……なんて事になる のがほとんどで、こういう場合は、合うまで延々やるか、細かい音量バランス や音質加工をあきらめて、メンバー全員でいつものように「せえ〜のっ!」で 演奏して、それを一度にレコーディングする方法に変えるか、というぐらいの 結論に落ち着くのがほとんどなわけです。
そうなんですね。これは、今の私には非常に興味深い光景だったのです。何 故、彼らはドラムとベースの2人になったというだけでちゃんと演奏できなく なってしまったのか! ここなんです、ポイントは。
あくまで、予想ですが、彼らは普段ヴォーカルのメロディーを聴きながら演 奏していたのです。十中八九まちがいありません。ヴォーカルの無い部分では、 そこに入るエレキ・ギターのメロディーを聴きながら、これを頼りに演奏して いた。
それが、突然、ドラム、ベースの2人になってしまった。さあ、どうする? そうれはもう反射的に彼らの頭の中にそれぞれが思い浮かべるヴォーカルのメ ロディが鳴り始めるのです。しかし、カッツン!カッツン!とクリックの音が 邪魔をする。そう。前にもメトロノーム遊びの話題で触れたけど、人間の自然 な拍感は決して時計のように一定ではない。だから、こういう時のメトロノー ム的クリック音は邪魔以外の何ものでもなく、あっけなく演奏は破綻すること になります。
では、クリックを消して2人になった。クリックのストレスが取り除かれて、 彼らの頭の中にはそれぞれの思い描くヴォーカル・メロディが鳴り響く。自由 に鳴り響く。だからもうノリノリ! しかし、2人の頭に鳴り響いているメロ ディはそれぞれのイメージで脚色されているから残念ながらマッタク同じとい うわけにはいかない。いつもは実際に同時に鳴っている(歌われている)ヴ ォーカルのメロディ。この時は2人ともいつものように「同じ」と思っている けれど、実は微妙に違うものを頭の中で聴いているわけだから、結果 は、合っ ていないということになるのですね。
では、バンド全員で演奏する時、当のヴォーカルやギターの奴は何を頼りに 演奏していたのかっていう問題になるのですが、答えはもうひとつしかない。 何も頼りにしていなかった=何も聴いていなかった、という、音楽を演奏しな い人が聞いても恐ろしい結論に至ってしまうのです。
しかし、結果的にはまだこの「何も聴いていなかった」の方がずっとマシな のですね。ここで、もし、ギターが人の音を聴く奴だったらどうなるか? 例えば、ギターはドラムに聴かれている。そのドラムをギターが聴く。そし てまたそのギターをドラムが聴くを繰り返すとどうなるか、音楽はどんどんう しろにうしろにモタついて遅くなって来るでしょう。そんなことになるぐらい なら、「せえ〜のっ!」で始めて誰の音も聴かずにツルツルツルっと前に前に 演奏して「ジャーン!」で終わった方がどれほど気持ち良いか! てなもんで す。
アイリッシュ音楽を演奏する人々よ! 他のジャンルの兄ちゃん達のこの話 を何と観るか? 見てくれは頭悪そうなロック兄ちゃん達かもしれないが、こ れを、貴方達は簡単に笑っていられるか?
<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・fieldアイ研部員対象とは 言いながら、無料練習会というのがあかんのか?>
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2007年5月
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■ field どたばたセッションの現場から
■ 自分の首を絞める「ビート」問題
■ field 洲崎一彦
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さて、2回にわたって、「BOSS Dr.Beat DB-90」というメトロノームを使っ ての「ビート」のお遊びを延々書いてきました。これは、なかなか文章だけで は伝えにくい「ビート」の感覚を「BOSS Dr.Beat DB-90」という便利なメトロ ノームを介して読者の皆さんに追体験していただけることをもくろんだのです が、どうでしょう? 実際にどなたか、やってみていただけたでしょうか?
もうひとつ分からなかった、と言う方は、編集部宛にどんどん質問をくださ い。
思えば、私が、「ビート」「ビート」と念仏を唱え始めてだいたい丸2年に なります。そして、その内容に関しては、本誌のこのコーナーで断片的に語る 以外は、fieldアイ研で行っている練習会で語るのみなので、そろそろ2年に もなると、人の口を介して他の人に伝わる例のパターンが作動します。いわく、
「スザキは最近何やらややこしい事ばかり言うて若者達を洗脳しているらし い」 「スザキは最近何やら周りのミュージシャンの批判ばかりしているらしい」 などと陰口をたたかれたりしています。
どちらもウソですが、まあ、そんな話になっても仕方がない側面もなきにし もあらずですか。最近、練習会に来てくれる若者達に、さっぱり演奏は上達し ないのに耳ばかりがやたら肥えてしまうという副作用が出始めているからです。
今まで何気なく聴いて来たCDを何倍も面白く感じられるのはすごく幸せです からそれはいいのですが、今まで凄いと思ってたミュージシャンの演奏がそう でもないと感じるようになるのはちょっと不幸かもしれません。
また、耳がそこまで要求するなら本人もっと自分の演奏に、その練習に必死 になっても良いと思うのですが、何故かそうはならないようです。ここが目下 の課題です。
やはりここには、色々な誤解が生まれているのだと思います。
この伝えにくいお話は、対面での練習会をしていても文字同様に非常に伝わ りにくいのです。こんなに伝わりにくいということはこの練習会を始めてみる までは私も認識していませんでした。ちょっとヒントを与えてあげれば皆「 あっそうかー! ハッピーハッピー!」っていう風になるもんだと思っていま した。
これは、甘かったと表現すべきなのか、そういう「ビート」解釈をする私が 変だったのだと反省すべきなのか。 いやいや、私はこうやって音楽を楽しいと感じてるのだから、反省という トーンの話ではないと思うのですが、時々、本当に自信がなくなることもあり ますね。まあ、ジッサイ、私の説明の仕方が悪いというのは大いにあるでしょ うし、ここは立派な反省材料ですけれども。
私たちの世代で、中学生の頃にエレキギターに興味を持つというような輩は、 ビートルズが解散してから後のブリティッシュ・ロックがリアルタイムになり ます。例えば、レッド・ツェッペリン。
「8ビートが理解できなければツェッペリンはコピーできない」と言われ、 じゃあ、その「8ビート」って何やねん? 誰も教えてくれない「8ビート」を求めてさまよっている内に、高校を出る 頃には「8ビートはもう古い。これからは16ビートだ!」なんて事になってく る。 「16ビート」に関しても、当時、色々な人が色々なことをラジオや雑誌等で 語り散らかしていたのですが、皆すこしづつ言う事が違っていて、これがまた さっぱり分からない。
だから、70年代後半に大学の軽音でバンド活動をやり始めてからも、この 「ビート」の問題はまったくクリアにならないまま、仲間と朝まで、ああでも ないこうでもないと日夜、悩み続けていたものでした。
そして、ジャズを少し知るようになると、今度は「スウィング」と称される ジャズ特有の躍動が「4ビート」とも呼ばれていることが分かり、ますます分 からなくなる。この、4、8、16、というキイワードはいったい何なのか!
こういう時代というのは、確かに、ポピュラー・ミュージックが一気に進化 発展した時代だったと思われるので、その渦中にいた私たちは七転八倒したと して仕方がなかったということでしょう。それに比べて、今の時代はこういう 進化発展の果てに、このようなビート・ミュージックはもうすっかり社会に定 着していて、つまり、生まれた頃からTVのニュース番組のテーマ曲が16ビー ト・フュージョンだったのだから、さぞかし、今の若い人達は自然にビート・ ミュージックに親しんでいるのだろうなあ、と羨ましくさえ感じていたのに ……。
この、私の予想は、どちらかというと、むしろ逆だったようなのですね。
つまり、当たり前にあるものだからこそ、誰もそれに疑問を持たない。つま り、誰にもたずねない。誰も教えない。というようになっていた可能性があり ます。 私たちの世代では、そんなものが突然現れた。つまり、皆それに驚いてまず 疑問を持つ。疑問というよりストレートに「何じゃ? それは!」という反応 から入るしか無かったのです。そして、誰もこれに適切に答えてくれないもん だから「何じゃ? それは!」をずるずる長年引きずって、半ば怨念のように なってしまいます。
私たちが現在面白がってハマっているアイリッシュ・ミュージックの内、お よそその半分以上がアイリッシュ・ダンス・ミュージックです。セッションの 場ではその比率は80%以上にもなるでしょう。
ダンス・ミュージックには躍動があるでしょう? 躍動が面白いからこそダ ンス・ミュージックが面白いのでしょう? 音楽に躍動があれば必ず「ビー ト」があるでしょう? だったら、この音楽を面白いと思った人なら、必ず「ビート」を感じている はずですよね。たとえ、無意識にでも感じているはずでしょう。だから、ち ょっとヒントを与えてあげれば皆大きくうなずいてくれるはずです。 私はこのように考えていました。
それが。 躍動を感じることなしに、このダンス・ミュージックを楽しんで演奏してい る人達が思いの外大勢いたのです。また、躍動を求めることなしに、このダン ス・ミュージックを楽しんで聴いているリスナーの皆さんも大勢いたのです。 躍動は音楽にあるのではなく、その音楽を受け取る人間の中に生まれるのだ。 ということを私は知りました。
では、自分の中に躍動が生まれるという体験を実際にしてもらって、これが 心地よいか心地よく無いか、を見定めてもらわなくてはなりません。これが、 心地よく無いのであれば、もう「ビート」なんて言葉は忘れてもらっていいの です。それぞれの方法で音楽を楽しんで行ってもらえばいい。 それでは、この躍動を誰もが体験できるにはどうすればいいのか。四苦八苦 して考えあぐねた結果たどり着いたのが、前回、前々回に紹介した「メトロ ノーム遊び」だったというわけです。
昨年2月に練習会を始めた時は、まさか、ここまでさかのぼって考えてはい ませんでした。いきなり、 「ジャストと思われるリズムの打点は理論的には点だが実際には幅がある」 なんていう話から入ったものでした。これでは、何を言ってるかちんぷんかん ぷんの反応をされても、今となっては当然だったと思います。
それで、今年は仕切り直して「メトロノーム遊び」から始めたというわけで す。
私は音楽を演奏するのに特別な才能は必要ないと思っています。聴いて、 「好きだ!」と思うなら、それを再現するために必要な力を最低限もう持って いると考えるからです。こういう軽さも音楽には重要だと思います。お勉強で はないんですから。要は理屈ではなくてどれだけ楽しめるかという部分です。
だから、決して私は「ビート」「ビート」の念仏の押し売りをしているつも りはありません。私自身は音楽を「ビート」で楽しんでいる。できれば同じポ イントで楽しむ人と一緒に音楽を楽しみたい。誰かこういうのを面 白いと思う 人いませんか〜! 呼びかけているだけなのです。ちょっと切実にですが。
そして、もし、仲間が見つからないかった時は、私はもうこの環境でこれ以 上音楽を趣味にすることをいさぎよく止めるべきなのかもしれません。
<すざきかずひこ:Irish pub field のおやじ・最近の練習会メンバーの印象 的な言葉「音楽ってしんどいですね」。>
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2007年4月
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■ field どたばたセッションの現場から
■ Dr.Beat遊び その2
■ field 洲崎一彦
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さて、今回も、「BOSS Dr.Beat DB-90」。このメトロノームを使ってのお遊 びの続きであります。
前回は、自分の身体の内部に「ビート」が生まれる瞬間を体験して頂いたわ けですが、「その」瞬間は味わってもらえたでしょうか? もひとつピンと来なかったという方は、最初の無拍子(カッ、カッ、カッ、 カッ、のみ)の時に、すでに身体を動かして拍を取ったり、つまり、手足、首、 などの身体の物理的運動をメトロノームの音に同期させてしまっていたのでは ないかと思います。楽器を弾く人の中には、こういう条件で拍を取れと言われ たら無意識に身体を揺らせてしまう人も多いと思います。でも、ここは、ぐっ と我慢して、その拍を取る手や指以外は完全に身体の動きを止めること。また、 メトロノームの振り子運動のようなビジュアル表示もピコピコ光る発光装置も 見てはダメです。絶対にダメ。働かせるのはあくまで耳だけ。この状態からス タートすれば、絶対にあなたの身体の内部にビートが生まれます。
さて、前回は、Dr.Beat に、だいたい「230」の速さで2拍子を鳴らせて上 記の身体の中に生まれる躍動感を体験していただいたわけですが、次に同じこ とを、また「100」の速さに戻してやってみましょう。
つまり、「100」の速さで、キン、カッ、カッ、カッ、の「キン」を入れな い。カッ、カッ、カッ、カッ、だけにする。 しばらく、この音を聴きながら、この拍に身を任せてみましょう。慣れて来 たら、身体を全く動かさずに(間を取るような動作はせずに)、この拍に合わ せて手で膝でも軽く叩いて拍を取ってみましょう。合わせられますか? 大変 でしょう?
次に速さを「100」のままで、メトロノームを2拍子の設定にする。つまり、 キン を入れる。キン、カッ、キン、カッ、となる。そして、身体をまったく 動かさず手で軽く膝を叩く同じ拍取りをしてみましょう。 さあ、さっきよりずっと楽に合わせられる。ウソのように楽になる・・・・ ような気はするが、そうでもないよのね。「230」の速さの時ほどにはすうっ と楽にはならない・・・。
これは何故か? それは、この時、あなたの身体の中にまだ「ビート」が生まれていないから です。
中には、このぐらいの速さ(「100」ぐらいの速さ)の2拍子で、グングン 身体の奥底から躍動感がわき上がって来る人もいると思いますが、これは個人 差ですね。そういう敏感な人もいるのです。でも一般的にはやはり「100」で はちょっとツラい。
さて、ここから、Dr.Beat DB-90 ならではの機能を使います。この機械には 液晶表示とその下部に6個のスライダーつまみがあります。このスライダーつ まみのそれぞれの役割は液晶画面 上に表示されます。
普通にメトロノームとし て使用しているモードでは、左から 1.「ACCENT」 2.「4分音符」 3.「8分休符と8分音符」 4.「16分休符と16分音符×2」 5.「三連符」 6.「VOL」 と、なります。 全部のスライダーが下に降りている場合は「VOL」スライダーが上がってい ても何も音が鳴りません。これを普通のメトロノームとして使う場合は左の2 つ、1.「ACCENT」 2.「4分音符」のスライダーを上げます。一番上まで上げ た状態が普通のメトロノームと同じになって、キン、カッ、キン、カッ、と鳴 ります。 例えば、これまでの操作では、「BEAT」ボタンで「STYLE 2(2拍子)」を 選んでいても、1.「ACCENT」スライダーを全部下げれば「キン」の音が消えて、 カッ、カッ、カッ、カッ、の無拍子になります。「キン」を入れたければ、1. 「ACCENT」スライダーを上げるのですが、スライダーつまみなので徐々に「キ ン」の音が大きくなります。これがこの機械の面白い所です。これまでの操作 の中でも、例えば、無拍子から2拍子に切り替える時も、この1.「ACCENT」ス ライダーで少しづつ「キン」を入れて行くことができるので、この入れ具合で 自分の感じ方の微妙な変化を試すことができます。
さあ、ここで話を元にもどしましょう。 「100」の速さでは2拍子にしても、つまり「キン」を入れてもまだちょっと正確に 拍を取り続けるのがツライ、という所まで来ました。
A) ここで、3.「8分休符と8分音符」つまみを半分ほど上げてみます。キ ン、ツ、カッ、ツ、キン、ツ、カッ、ツ、と鳴るでしょう? さあ、これで一 気にフッと楽になりませんか?
B) あるいは、3.「8分休符と8分音符」を1/4ほど上げて、4.「16分休符と 16分音符×2」を半分ぐらい上げてみた方がより楽になる人もいるかもしれま せん。
C) また、あるいは、3.「8分休符と8分音符」と 4.「16分休符と16分音符 ×2」は全部下げて、5.「三連符」を半分ほど上げるのが好みの人もいるかも しれません。
はい。これら、すべては、テンポ「100」の2拍子です。これらの作業で何 をやってたかと言うと、1拍に当たる4分音符を、2分割、4分割、3分割し て、それぞれの音量に変化をつけて鳴らしてみていたのです。 すると、どうですか、ただの4分音符だけの「100」の速さの2拍子では ちょっとピンと来なかったような色々な躍動感が身体の中に生まれましたよね。 そういう躍動感が生まれたからこそ、一緒に拍を取る作業がフッと楽になった のです。
様々な音楽家諸兄の解釈では異論もあるかもしれませんが、この話の流れの 上で定義すると、4分音符だけの2拍子の躍動感が「タテのり」。4分音符を 色々に分割して感じられる躍動感が「ヨコのり」と考えて良いと思います。
つまり、実際に楽器を演奏する立場で、例えばこの「ヨコのり」感覚が開発 されていないと、ノリを出すためには、と言うか、躍動感を得るためにはすべ てが2拍子に限りなく近づいて行きます。そして、さらに「もっと、もっと」 と無理矢理躍動しようとすればするほどテンポが加速して行きます。限りなく 加速します。 例えば、アイリッシュで言えば、リールの演奏をしていて、ノリノリになれ ばなるほど加速する人が多いという状況は、このようなメカニズムが働いてい るのだと言えるでしょう。
逆に言うと、ある一定のテンポより早い音楽は2拍子の躍動感しか得ること ができません。ヘヴィメタルがどんどん加速してスラッシュ・メタルと言う超 高速ハードロックが成立した時、観客は皆、ジャンピングかヘッドバンギング という強烈で単純な「強弱」(つまり2拍子ですね)だけの身体運動によって 恍惚を得ようとしました。だから、この「タテのり」というのも使い方次第だ とは言えるのですが、このような特定の躍動感に特化した音楽を別にすると、 どうしても「ヨコのり」の感覚を開発することなしに様々な躍動感を持った音 楽を演奏することは不可能だと言えるのです。
ちなみに、上記の Dr.Beat DB-90 で感じることのできた躍動感のうち、
A) が俗に言う「8ビート」、
B) が「16ビート」、
C) は、この躍動を基本として、 「4ビート」になったり「シャッフル」なったり、ブラック・コンテンポラ リーのバラードによく登場する「ハチロク」になったりします。
さて、どうでしょう? 「タテのり」と「ヨコのり」。体験していただけた でしょうか?
<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・「ビート」・・・を感じる のにも体力というか筋力が必要なのではないかと焦燥をつのらせる日々。>
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2007年3月
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■ field どたばたセッションの現場から
■ Dr.Beat
■ field 洲崎一彦
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先月はモーテンホイロップさんの顔の怖さにおののいたわけだが(うそ)、今月はまた、年頭にスネていた問題を再考しようと思う。いわく、音楽における「ビート」の概念であり、これをアイリッシュ・ダンス・チューンに適用するというアイデアである。
fieldアイ研においては、3年ほど前に約3名の部員とともにこの問題についての試行錯誤を始めたのだが、1人は完全に脱落し、1人は独自に我が道を進み、ひとりは何とか今もfieldアイ研にとどまっている。この過程で、何年も音楽に携わっている経験者の一度成立してしまっている音楽的発想を根本的に変えるという作業が非常にデリケートかつ困難であることを切実に実感したわけで、それならば、初心者に対してこれをアピールしてみてはどうかと言うことで有志の練習会を始め、さらにその翌年にあたる昨年2006年に、fieldアイ研内に広く呼びかけて「アンサンブルに関する練習会」と題し、初心者のみならずこのテーマに興味のある人はみんな集まってくれという練習会を正式に発足したという経緯があった。
第一の関門が、また、最初の第一歩が「メロディーだけに心を奪われない」という、いわゆる発想の転換にあったわけだから、昨年2月のこの練習会発足時、最初の3〜4回はガイダンス(お話)に時間をかけた。これには、のべ20名を越える人々が集まってくれたのだが、ガイダンスを終えた時点でその半分以上がいなくなり、実技に入る頃には3分の1に減り、しかも、実技が始まってから新しく参加する者、また去って行く者が入り乱れ、参加者の顔ぶれがころころ入れ替わった上に、カリキュラムは進んだり戻ったりを繰り返した。迷走である。
ただ、カリキュラムと言っても、あらかじめそんなものがあるわけではなく、その時々の参加者の反応を見て次回の練習方法を考えるという式のやり方である。個人にターゲットを絞っているわけではないので、想定にあてはまらない人も出てくる。初心者から上級者まで歓迎と大風呂敷を広げているので、時に、さっきホイッスルを買いましたという極端な初心者や、普段はアイリッシュはあまり興味無いのだけれど友人について来たのでというジャズマンなどが混入することもあった。
中には、理屈は大いに興味を持って取り組んでくれたが、実技に入ると、そのあまりのギャップに戸惑って脱落した者もいたし、多くの場合、すでに個人個人何らかの音楽活動をしていて、せっかく発想の転換の入り口にたどり着いても、次週までの間に自分の普段の音楽活動をしてしまうと一気に元に戻ってしまうという例が非常に多かったのではないかと思う。
そして、意欲的な人達は人達で、意欲的であるがゆえに焦ってしまって色々な誤解を引きずった。 とまあ、そんな1年間のデモ練習会であった。まさにデモンストレーション、あるいは実験的練習会であったのだ。
というわけで、今年に入ってから、従来この練習会に顔を出していた連中がそれぞれ様々な事情でアイリッシュ音楽から少し遠のいてしまっているこの時期に、昨年の練習会の成果 を嘆いてばかりいてもしようがないので、文字通りこれを反省材料とし、もう少し効果 的に事を伝えることのできる具体的な練習方法を整理しつつ、また、この練習会を一から仕切り直そうと考え直したのだった(パチパチパチ)。
そこで、このクランコラ紙上にも、取りあえず文章だけならべてもさっぱり分からないようなことを書くのはやめて、読者が追体験可能であるような、何か、そういう事を書けないものだろうかと頭をひねった。 この両方を思案している時に思い付いたのが、メトロノームである。
メトロノームという装置は実は非常に面白い装置である。音楽の練習には必要不可欠と言われながら、また、音楽を練習する人なら誰でも1つは持っているだろうと思われているのだが、これが、案外、持っている人が少なかったりする。 しかし、この事情も分からないわけではない。この装置は音楽に関係あるようで実際は音楽のメカニズムを無視した装置、つまり非常に音楽的ではない装置なのだ。音楽に無限に近い所にあって、かつ、音楽には全く関係のないイメージを作り出す装置である。だからこそ、音楽を音楽的に好きな人ほどこの装置を好きになれない。しかし、この特性を把握した上で利用する限り、これほど、音楽的イメージを強化してくれる装置も他には見あたらない。
メトロノームの本質は、言ってみれば「時計」である。これが分かれば、どんどん利用できる。音楽は時間と共に変化する音の変化である。この、音楽時間の標準モデルを表現する装置がメトロノームである。
さて、今回は、このメトロノームを使って、私たちの「ビート」概念の最も基本的な部分を一緒に体験していただきたいと思う。
メトロノームでテンポ「100」ぐらいの拍を出してみよう。この時「拍子」は設定しない。つまり、キン、カッ、カッ、カッ、の キン を入れない。カッ、カッ、カッ、カッ、だけにする。 しばらく、この音を聴きながら、この拍に身を任せてみよう。慣れて来たら、身体を全く動かさずに(間をを取るような動作はせずに)、この拍に合わせて手で膝でも軽く叩いてみよう。合わせられますか? 体育会系ブラスバンドなどで執拗にこのテの訓練をした経験のある人なら軽い作業かもしれないが、普通 、実際に楽器を弾いている人でもこれってなかなか合わない。メトロノームの音に相当の集中力を持って耳を傾け続けなければしようが無いのだけれど、集中すればするほど気持ち悪いほど合わない。
メトロノームは時計である。人間の身体が自然だと感じる拍動感とは合わなくて当たり前なのだ。また、このメトロノーム時計の発するテンポは、その人が最も心地よいテンポだと感じる速さより速くなればなるほどより速く感じる(メトロノームが走っているように感じる)し、その速さがより遅くなればなるほどより遅く感じる(モタっているように感じる)という特性がある。
次に、テンポを「200」以上に上げてみよう。さっきの「100」のちょうど倍ではダメです。「230」ぐらいがいいかもしれない。そして、同じことをする。膝を叩くのに全拍に合わせるのが運動的にシンドかったら2拍毎でも良いのでこれも膝を叩いて合わせてみる。 これが、笑ってしまうぐらい合わないでしょう? 2拍毎にすれば少しは楽かな?それでも少しでも気がそれると置いて行かれるし、頑張って追いかけると追い越してしまう。 これが、拍というのもなのだ。メトロノームはあくまで正確な時計だと思って間違いない。
そこで、今度はメトロノームを2拍子の設定にする。つまり、キン を入れる。キン、カッ、キン、カッ、となる。これをさっきのテンポ「230」で鳴らしてみよう。そして、身体を動かさず手で軽く膝を叩く同じ作業をしてみよう。さっきの無拍子の時から間をあけずにやった方がいい。 ほら、さっきよりずっと楽に合わせられる。ウソのように楽になるでしょう?
メトロノームが物理的に音を出しているタイミングは同じなのだ。同じ拍を淡々と刻んでいるのは変わらないのに、1拍毎に キン という強い音が入ることによっていったい何が変わったのか。 それは、それを聴いている人間の身体の内部で変化が起こったのだ。身体を動かさずに手を軽く膝に打ちつけるという動作も同じなのだから、変わったのは身体の内部である。
これが、人間の身体の内部に「躍動」が生まれた瞬間である。つまり「ビート」が生まれたのだ。
この、身体の中に生まれる躍動感というものを強く意識して欲しいのだ。無味乾燥な時計の一定拍音でも強弱をつけて示されるだけで人間の身体は勝手に躍動感を創造するのだ。そして、その拍動の速度をメトロノームの速度に同期させようとする欲求が自然に働く。この時は、もう、さっきまでのように、メトロノームの1音1音を集中して聞くなどという作業は行っていない。「合わせる」という作業方法がここで完全に変化したのだ。メカニズムが瞬時に変化したのだ。だから、合わせるのがちょっと楽になるというわけだ。
以上の事は、どんなメトロノームでも追体験できると思うので、手元にメトロノームがある人は是非一度試してみてほしい。自分の身体の中に「ビート」が生まれる瞬間を是非、実感してほしい。
さらに解説を加えると。「拍」は客観的にそこに存在するものだ。時間を一定の長さで分割することが成されていれば、受け取り側がどのように感じようと淡々とそこに存在する。それに対して、「ビート」は客観的存在ではない。何らかの「拍」を受け取る人間の内部で、その人間の感性に沿ってゼロから躍動が生まれるのだ。これが、「拍」と「ビート」の決定的に違う概念である。 最終的には、優れた演奏者は外部から何の「拍」を与えられなくても自分の身体の内部に躍動を作ることができる。まったくのゼロから自由自在にこの躍動を作り出す。その結果 として音楽が生まれるのだから、この結果から考えると、外部の「拍」は単なる「呼び水」であって、音楽とは一切関係ない。つまり、メトロノームは音楽とは何ら関係のない装置であるということである。
一般的には、ここに「リズム」という言葉も加わって、音楽の時間変化と躍動を表現する概念は常に混乱をきたすのだが、とりあえず、ここでは「拍」と「ビート」の概念を明確に分けた。おそらく、音楽用語としての英語ではこの両者は同じ意味で使われるのかもしれないが、このあたりの概念を整理するために私たちは、まず最初に、この「拍」と「ビート」の明確な違いを意識することから始めるわけである。
次に、この「ビート」。
「ビート」とはこんな感じのものだというのはお分かりいただけたと思うが、この「こんな感じのもの」には実にさまざまな種類があるわけである。俗に言う「4ビート」や「8ビート」などは最も基本的な「ビート」の種類だし、一昔前には「スウイング」「サンバ」「アフロ」など「ビート」には固有の名前が付いていた頃もあったが、なぜか今はこのテのカテゴライズは流行らない。 しかし、そういう細かいバリエーションの前に、「ビート」には大きく「タテのり」と「ヨコのり」の違いが存在する。この概念が、次のステップである。
また、人間の身体がその内部で「ビート」を生み出すのは、やはりある一定のメカニズムがあって、ただ無意識に「ノッて」いるだけでは「ビート」を存分に楽しむことができない。このメカニズムを研究することによって、自分の身体の「ビート」的なクセというものも発見できる。これは、演奏者のみならず、リスナーにとっても、「ああ、だから自分はこういう音楽が好きなのか」という自己分析にもつながるし、また、一歩新しい音楽の聴き方の可能性も示唆する。
というわけで、次はちょっと説明が難しい「タテのり」「ヨコのり」の話である。
ところで、私は、最近、とても素晴らしいメトロノームを入手した。上記の「ビート」誕生の瞬間を体験するにももちろん最適なのだが、こいつは、メトロノームなのに「タテのり」「ヨコのり」の疑似体験にも使える優れモノなのである。
次回は、このメトロノーム、「BOSS Dr.Beat DB-90」を使って再び追体験可能な「タテのり」「ヨコのり」の解説を試みようと思う。
DB-90はメトロノームとしては少々高価(15000円前後)だが、リズムなるものに少しでも興味をお持ちの方ならたとえ楽器をやらない方にとっても非常に魅力的な装置である。CDを5枚購入して、ただ、のんべんだらりと聴き流すぐらいなら、こいつを1台ポンッと購入した方が、将来的な自己の音楽の楽しみという事を考えるとずっとお勧めですよ。断言します。
<洲崎一彦:Irish pub field のおやじ・「ビート」・・・とは言え、まだまだ暗中模索である。どなたか、黒人音楽の「グルーブ」等を解説した書籍をご存じの方はお教えいただきたいと切に願います。>
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2007年2月
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■ field どたばたセッションの現場から
■ モーテン・ホイロップのヨコのり
■ field 洲崎一彦
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さて、先月は散々にすねてみたものの、自分の中でも、まして周りの環境も 当然の事ながら一向に好転せず、いよいよ音楽に意欲を喪失せんとするその時。
まさに、このようなタイミングで、ハウゴー&ホイロップのライブを観る機 会があった。実はこのデンマークのフィドル&ギターのデュオを、私は3年前 に一度観ている。その年のケルティック・クリスマスにアルタンと共に滋賀県 栗東市にやってきた彼らの演奏を観た。しかし、あの時は自分たちが任された イベントのリハの合間に、しかも、相当な疲労こんぱいの精神状態で。確か、 そのイベントのラストステージではアルタンのメンバーに混じって彼らも一緒 にステージに上がって私たちとも大セッションをしたはずなのだ。が、彼らの 印象はあまり残っていなかった。正直な所。
CDは聴いていたが、耳障りの良いフィドルのメロディーが何のひっかかりも 無く流れて行くだけで、音楽的貪欲を失っている私にはちょっと刺激不足な感 じがしていた。
そんなわけだから、実際、何の期待もなくこの日のライブ会場に足を運んだ わけでした。
まず、え? と思ったのは。マイクが立っていないこと。この日の会場であ る京都ライブハウスの大老舗、磔磔には学生時代からもう何百回も通ったが、 マイク無しのライブなんて初めて!
一定の広さのある会場でもあるし、これ は考えたこともなかった作戦。
ギターは後にギター・アンプが置いてあったから、少しは音量の補正をして いたのだろう。が、フィドルは全くの生だ。おまけにボーカルも生だし、MCも 生だ。だから、客席は1曲1曲にシーンと静まり返る。こんな磔磔は初めて。 非常に新鮮。
そこで、新たな驚きがあった。アコースティック楽器は、それは出来得れば 生音が良いにきまってる。マイクを使うと、結局聞こえるのはPAスピーカーか ら出て来る音だ。つまり、スピーカーという紙が振動する音なのだ。ギターや バイオリンは弦の振動が楽器の木部に伝わって木が振動している音なのだから、 これをまたマイクで拾って云々というのはナンセンス極まりない。
しかし、これは単なる理屈だ。会場の広さ、音の反響特性などによっては生 音だけでは音量バランスもままならず音楽にならないことの方が多いのが実際 の所だ。良いPAシステムは良い音楽を確実にサポートする。だから、私として は、これまで、無闇やたらな生音信奉者には少なからず疑問の目を向けてきた。
が、それほど特に生音の反響特性が良いとも思えないこの京都磔磔に響き渡 る彼らの演奏には単なる音質以上のものがあった。それは、楽器を奏でている 演奏者自身の身体も「鳴っていた」という要素だ。反響2秒などというクラ シック専用ホールなどでは返ってこういう部分はマスクされてしまうかもしれ ない。音質的にはそれはむしろ荒さに通 じるものだ。足踏み音や衣擦れの音は 純音楽的にはわずかなものでもノイズであろう。しかし、この夜の磔磔の空気、 文字通りの空気は、たった二人の楽器演奏家の全身から発せられる波動に全面的に共鳴していた。特に、ギターのモーテン・ホイロップの全身から発せられ る波動の強力さは驚愕に値するものだった。
モーテンのギタースタイルは、どちらかというと、ジャズ系の4ビートカッ ティングを多用するものではあるが、アメリカ系のギタリストであればさほど 珍しくないタイプだし、それほど特別なものではない。CDで聴くと、ちょっと 聴きは「よくあるスタイル」として耳に心地よく流れて行く。しかし、その弦 を弾くカッティングの強さとその時の音量が驚くほど押さえられているのがこ の日の生音ならではの発見だった。
あとで知ったのだが、彼のギターは高級な特注品ということなので、たぶん すごく良く鳴るギターだ。良く鳴るギターなんか持つとワタシらはガンガン音 量 を上げて弾きたくなるものだ。
音量が押さえられたよく鳴る楽器の出す音のふくよかな音質もさることなが ら、音量が押さえられている分、彼の身体に躍動するビートは彼の身体全体に はち切れんばかりに充満する。顔の筋肉のピクリとした動きや、ギターを抱え 直すといったちょっとした動きにもそのビートがみなぎっている。 モーテン・ホイロップはとんでもないビート感を持った人だった。ギターの カッティングパターンや使用する和音の巧みさ以上に、恐るべきヨコのりを 持っていた。一般 的にヨコのりの達人はアメリカの黒人ミュージシャンである。 彼らのヨコのりがダイナミックな運動エネルギーを連想させるとすれば、モー テンのヨコのりはもっとデリケートにコントロールされている。
が、どちらにしても、私は黒人ミュージシャン以外で、これほどまでにヨコ のりを感じさせるミュージシャンを生で見たことがない。
ライブ後、彼らとともに、会場に居合わせたフィドラーズ・ビッドのクリ ス・スタウトも一緒に、fieldにご来店いただいた。アイリッシュ音楽の人た ちではないので、私たちも無闇にセッションをけしかけたりはしなかったのだ が、ふとしたきっかけで大セッションが始まってしまった!
この時のセッションは、いやはや、もの凄いものだった。この時のセッショ ンの内容も決して無視することはできないのだが、ヨコのり話的にはこのセッ ションのフィナーレにとても興味深い光景が出現したのだ。
誰ともなしに「日本のチューンを弾いてくれ」ということになった。嘘か誠 か、デンマークでは「もみじ」が割と知られているという。そこで、居合わせ た功刀君が「もみじ」を弾き始めた。実は彼はこういうのも上手い。実に情感 たっぷりに弾く。ぶちょー氏がギターで控えめに伴奏をつける。そして、モー テンもやおらギターを構えた!
あらら! モーテンをもってして、功刀君とぶちょー氏の「もみじ」の演奏 に入って行けない! 一瞬戸惑う、どころか、2〜3コーラス分戸惑っている様 を私は見逃さなかった。おもしろかった。
この時のモーテンの身体の動きがおもしろかった。身もだえるようなよじれ が生じていたのだ。そして、最後には、ぶちょー氏の弾くギターの1拍を3連譜 に取り始めたのが分かった。そこで、途端に身もだえは落ち着きを見せ、調子 良く右手がギターの弦を上下し始める。
そこで、今度はぶちょー氏が調子を狂わせた。1拍の感じ方が全く違うから だ。気が付いたらモーテンのヨコのりが全てを支配し、功刀君の「もみじ」も 情感メロディーからすっかり外れて、4ビートのアドリブに近い演奏に変わっ ていた。
この一連の光景はいったい何を意味するのか。
ずばり断言する。モーテン・ホイロップは「もみじ」のタテのりが理解でき なかったのだ。また、同時に、ぶちょー氏は「もみじ」をヨコのりに感じた モーテンのこの一瞬のビート感が理解できなかったのだ。
<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・音楽というものの途方もな さは、どこか見ない振りでもしない限り、我々老体には過激に過ぎるかもしれ んな。>
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2007年1月
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■ field どたばたセッションの現場から
■ すねまくる新年
■ field 洲崎一彦
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さて、クランコラ恒例の年頭テーマ、「昨年のベスト音楽体験」です。
ああ、またこの季節がやって来たのだな、と思う。昨年のこのコーナーで私 は、「昨年のベスト音楽体験」というテーマから逸脱して、アメリカの黒人音 楽に由来する「ビート」という考え方でアイリッシュ・ダンス・チューンを見 直してみようという提案をした。
提案したからには、ということで、昨年1年、私の主宰するfieldアイルラン ド音楽研究会に於いて、具体的に色々と実験や実践を試みて来た。 特に、毎週月曜日に有志に集まってもらって「ビート」を念頭に置いた練習 を研究する練習会を、2月からほぼ1年間続けた。
今回はあくまで、そんな昨年を振り返ってみることにする。
まず、この「ビート」という発想。これをこれまで一度もそんな考え方をし なかった人に対して説明するのが非常に難しいということを身にしみて知った。 これは、その人の音楽経歴や現状の音楽的能力の善し悪しに全く関係なくそう なのだ。
また、予想していたより多くの演奏者がこの「ビート」という発想と正反対 の音楽的アプローチをしていたということも驚きだった。正反対というのは、 例えば「メロディー」ばかりを必死になって追いかけるというようなアプロー チだ。
我々が若い頃に比べると、今TVや何やら巷で流れる音楽の数々は比較になら ないぐらい「ビート」に溢れているではないか。今の若者はいいなあ、もの心 つくかつかない時分からこの種の音楽が溢れた環境に居たら、ワタシらみたい に「ノリ」などで苦労することはないだろう・・・、などと日々思っておった ものを。
この点は不思議でしょうがないのだ。つまり、若者達よ! 触れていても注 目しないということは、私が「ある」と思っていることが幻想なのか、もし実 際に「あった」としても「面 白い!」と思っている私が少数派なのであって、 一般にはそれは取るに足りないものだということになるのではないか。つまり、逆説的に言うと、この「ビート」という発想は音楽をやる上でそれ ほど重要なことではないのかもしれないんじゃないの!?
では、聴衆の立場ではどうなのか。これも色々リサーチしてみた。聴衆は音 楽に「ビート」の要素を求めているか否か。 答。 少なくとも、この京都四条烏丸界隈のアイリッシュ・ミュージックの聴衆た ちはそんなものを微塵も要求していない。どうもそんな気がする。
このあたりで、私の信念は大きく揺らぐ事になった!!!
ある日、上記の練習会での説明の方向を少し変えてみることにした。理屈や 音ではなくて、誰でも分かるように身体の動きとその時の躍動感を実際に体験 してもらうのがいいかもしれないと考えた。とにかく、そういう楽しみがある のだということから分かって欲しいという趣旨で、教材はアイリッシュならぬ80年代のディスコダンス曲だ。
ここで、「タテノリ」「ヨコノリ」という語を使った。「ビート」を語るに は不可欠の概念だと思われるこの言葉も不思議に今ではあまり使われなくなっ ているみたいで、この語自体を初めて聞くという人が多かった。なので、この 語のそれぞれの概念から説明しなければならなかったのだが、そこで非常に興 味深いことがあった(これは、6月のこの欄にも紹介した話だが)。
その時、ちょうど、アフリカ&イタリア系アイルランド人のマテオ君がこの 練習会に参加していたのだが、彼には「タテノリ」の概念がどうしても伝わら ない! 他の諸君(日本人)には「ヨコノリ」の概念が伝わらない! これは いったいどうしたことか!? 音楽に国境は無いなんていうのはウソか!!?
昔は日本人はリズムが悪い、とよく言われたものだ。しかし、マテオ君の例 をすべてのヨーロッパ・アフリカ系のリズム感を代表するなどと思うのは早計 なのだけれど、もしかしたら私たち日本人は他のどの国の人々よりも「タテノ リ」に関しては長じている可能性もあるではないか。少々脇にそれる話なので、 この事はまた機会を改めて調べてみたいテーマではある。 話を元にもどす。
「タテノリ」って何? 「ヨコノリ」って何? と、これをここで誤解のな い文章で表すのも至難である。だからここでは、定義というより雰囲気だけ伝 えようと思う。
その音楽に合わせて身体を動かしてみた時、腰がどしっと座った感じで上半 身だけで拍動を感じるのが快い時は「タテノリ」。腰を軽くして前後左右どち らにでも水平に動かしたくなったら「ヨコノリ」。こんな感じで言うのがたぶ ん一番伝わるのではないか。
例えば、阿波踊り。あの「テンケテンテ、テンケテンテ」というリズムは音 符にすれば、そのパターンはたぶんロックンロールやリズムアンドブルーズの シャッフルと同じだ。しかし、ロックンロールが思わず軽く腰をひねりたくな るのと正反対に、阿波踊りはどっしりと腰を固めて膝も固めて足首まで固めて 小幅で歩みを進めながらヒラヒラと上半身の腕で「ノル」。
つまり、「タテノリ」と「ヨコノリ」はたとえリズムパターンが同じであっ ても「ビート」が違うのである。これが、「ビート」という発想の面白さなの だが・・・。
すべてのアイリッシュ・ダンス・チューン愛好者に問いたい。この楽しみは そんなにマニアックなのか? こういう部分に注目せずしてアイリッシュ・ダ ンス・チューンの何が面 白いのか? 似たような単純なメロディの曲が何百曲 あってもこういう所に注目しないことには文字通 り飽きるだけではないか。そ うでなくて、他に何か注目するべき所があるのか?
同じダンス音楽でも、ヒップホップの連中なんかの方が話が合うかもしれん な・・・・。
などと、私は新年から半分すねている。
<すざきかずひこ:Irish pub field のおやじ・今年の抱負。音楽以外の趣味 を持つこと。>
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