2006年12月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ セッションの現場 2

■field 洲崎一彦

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 さて、今回も前回に引き続き、「セッションの現場」ということを考えて行 きたいと思う。前号も参考にさせていただいた、北海道で個人的にアイリッ シュ・セッションを主宰する方のセッションの苦労話の中に、セッションでの 選曲という問題があった。これも大いに共感できる点が多いので、今回の中心 テーマにしてみようと思う。  

 曰く  「残念なことに人間っていうのは飽きる。良い曲ほど好きになって弾きまく り、そして飽きる。 だから、飽きる前には別な曲を練習しようとする。ひと つの曲を覚えて、弾き込んで、飽きて……というスピードは個人差が大きい。 かなりの曲をそこそこ弾ける人もいれば、これから初めて笛を持つ人もいるだ ろう。この人たちが一緒に弾けるのがアイリッシュの良いところであって、 セッション全体が次々に新しい曲を追うのは、悪いことじゃないと思うけど、 その1曲を目標にずっと頑張っている人もいるのだから、やっぱり定番という のは必要なのかもしれない」  

 よく、ジャズやブルースのプレイヤーに勘違いされるのだが、アイリッシュ のセッションはどういうルールでやっているのか?という質問がある。ジャズ やブルースのジャムセッションでは基本的にコード進行を決めて、その上で各 楽器がアドリブをする。そういう何かルールがあるのか?という質問である。  

 いや、曲をつなげて演奏し続けているだけだ、と答えてもなかなかピンと来 ない。ついこっちも力が入って、だからあ〜、演奏しているのは、1,000曲以 上あるだろうと言われているアイルランドの民謡のメロディーだからそれをだ いたい3回ぐらい繰り返して切れ目無く何曲も続けて演奏しているだけやって!  

 何!? それでは、皆それを覚えているのか? 誰も楽譜を見てないぞ!  

 まあ、ポピュラーな曲は皆覚えている。そうでないとセッションできないから。  

 なんぞ、答えた日にゃ、そのジャズメンはたちまち及び腰になる。聴いて りゃ単純そうな音楽やってるからちょっくら自分も参加してみるかと軽く考え たけど、1,000曲もの曲を覚えなければならないなんてー!!  

 これも大いに誤解があって、誰も1,000曲なんて覚えてるわけありません。 field セッションで過去に出た曲全部を併せても曲は100種類ぐらいでしょう。 最近では30〜40曲ぐらいの中からローテーションしているのが現実だと思う。 まあ、確かにある程度の曲は覚えておかないとセッションに参加して楽しむと いう所まで行けない。そういう事もあって、field では「field セッションで よく演奏される曲覚え用」として過去に2枚のCDRを発売した。  

 先述の北海道の方のコメントにもあるように、同じ曲ばかりやっていると正 直言って飽きる。でも、セッションに来る人の技量や楽しみ方はそれぞれなの で、新しい曲を覚えなさいとか、もっと練習しなさい、などという事を強制す ることはできないし、そんな事を強制すればセッションの醍醐味も無くなって しまう。  

 field セッションのような完全にオープンな(誰でも参加できる)セッショ ンに於いては、初心者も上級者と一緒になって演奏できるという魅力が確かに ある。これは、初めからセッション・メンバーを雇って、そのミュージシャン が時々個人的にゲストも招くこともあるよ。というような一般のパブ・セッ ションには決してあり得ない魅力だと思う。  

 しかし、いつも、ほぼ固定のセッション・マンが演奏しているということは、 それはもうほぼバンドではないか。  だいたい技量もレパートリーも同じぐらいのレベルのプレイヤーが初めから 集まっているのだし、その固定メンバー達が時々、そろそろ少し新しい曲を増 やそうか?などと相談するだけで曲は更新される。  

 パブ・セッションとは言え、現実にそれを聴く一般のお客様が居る以上は一 定の音楽レベルも保たなければならない。それなら、もう、バンドなのだから、 ステージから聴衆に向かって演奏する方が何倍も親切というものだ。だが、こ のセッションというスタイルが一種のアイルランド音楽の風物になっている以 上この形式は重要な舞台装置なのだ。  

 つまる所、結局、アイルランドでも余程の田舎にでも行かない限り、パブ・ セッションはこのような形式で行われている。もはや音楽を観光資源と見定め ている国なのだからこの形式は絶対に守らなければならない。  

 それに、店を経営する者の立場から言っても、こういう形式ででもないと、 店の軒を無条件に荒くれミュージシャンに解放するなど怖くて続けられるもの ではない。  

 だから、私たちのように毎週2日もオープン・セッションをやるような場所 自体が異常ではあるのだが、一方、それを聴かされる側に立って考えてみると たまったもんじゃないと思う。その日その日によってメンバーが違う。人数も 違う。技量の差も甚だしい。レパートリー数も当然違う。そういう集まりが演 奏する音楽がいつも最高!であるはずなど絶対にない。無責任な発言に聞こえ るかもしれないがそれが事実だ。

 それでは、このようなオープン・セッションの場合、選曲という問題はどう したらいいのか。確かに、ポピュラーな曲ばかりをいつも繰り返していてはさ すがに飽きる。でも、それは飽きたと思う人がどんどん提案して新しい曲を やって行けばいいのだ。その時、その新しい曲を覚えようと思ってくれる人が 居るかどうかは、その時にどんな人が参加しているかという事に尽きる。意欲 的な人が居れば覚えようとしてくれるだろう。ゆっくりマイペースで楽しもう と考えている人には無視されるかもしれない。が、それはそれでいいのだと思 う。  セッションがあるひとつの方向に動き出すと、そっちを指向していなかった 人は次第に来なくなるだろう。でも、セッションの流れにも谷間があって、そ ういうタイミングで新しい人がやって来て、セッションをまた違う方向に持っ て行ったりもする。こういう風に、オープン・セッションは常に流動している。 その流れの中で個人個人がどのように楽しむのかは個人個人に任せるしかない。 というか、何か思いついた人がまずは勝手にやるしかない。  特に、われわれのような、ミュージシャン寄りのオープン・セッションはこ れしかやり様がない。  

 それにしても、セッションというのはやはり、大いなる遊びだなあ、と痛感 する出来事があった。  

 先日、ルナサのメンバーが field を訪問してくれた。その時は英会話もま まならない連中が集まっていたので、初めに彼らが顔を見せた時はただ驚き、 感激するばかりで、会話も出ないし、ニコニコにやにやしながら彼らを取り囲 むだけだった。はっきり言ってあれは不気味な光景だった。彼らにしても、外 国に来て、パブだと言うから行ってみたら、やたらにやにやした若者に囲まれ て気持ち悪かったに違いない。ワシがその立場やったら泣いてるわ。  

 そんな時、あるひとりの若者が楽器を取り出した。そいつは今年からアイ リッシュを始めた大学生で、つい最近大学サークルのイベントで初めてアイ リッシュ・ユニットを組んで初めて人前でアイリッシュを演奏した、言ってみ れば初心者フィドラーである。その時に彼が初めてコピーした曲がこともあろ うにルナサの名曲〈Morning Nightcap〉だった、ような奴。  

 まわりは、おいおい、お前、大胆やなあ〜、てな感じで、彼に冷たい視線を 送ってたのだが、それを見ていたケヴィン・クロフォードとショーン・スミス が「お!」てな表情を浮かべた。キリアン・ヴァレリーもそそくさと自分の楽 器を取りに行った。それで、あれよあれよと言う間にセッションが始まったの だからたまらない。  

 さっきまで、その初心者フィドラー君に冷たい視線を送っていた皆も次々に 楽器を取り出して、乗り遅れまじとセッションに加わり、あっと言う間に大 セッションが出現した。  

 曲が途切れた時、ケヴィン・クロフォードがその初心者フィドラー君に、お 前何かやってみろよ、と言った。彼は喜々として〈Morning Nightcap〉を弾き 始めた。ショーン・スミスもキリアン・ヴァレリーも普通 にそれに付き従って 演奏し始めた。  

 初心者フィドラー君、ちょい3ヶ月ほど前に必死でコピーした曲を本物と一 緒に演奏してしまってるんだから当然ながら大興奮。ルナサの皆さんもまたそ の光景を楽しんでいる。まさに、初心者と極端な上級者が一緒にやっちゃった セッションそのままの図ではないか。  

 こういう場面に遭遇すると、セッションの音楽性とか何とか言うのはもはや ナンセンスだと痛感するのだ。セッションは大いなる遊びのツールだ。この ツールを効果 的に使えば、さっきまで言葉が通じなくて、あるいは緊張してぎ こちなかった空間が、一瞬にしてこんなにも打ち解けたものに変わるのだ。  

 つまり、白けたセッションや面白くないセッションがあったとすれば、それ は、このツールを使ってみんなで遊ぼう!と考えている人が集まっていない。 ただ、それだけのことなのではないかと思う。  

 では、このツールを使ってみんなで遊ぼう!と考えていない人は何を目的に セッションにやって来ているのか。そんな人が実際に居るのか? と思う向き も多いだろうが、実はそんな人は案外多いのです。それぞれの目的を胸に秘め てニコリともせずに黙々と楽器を演奏する人々……。  

 年末の最後の最後に、ちょっと爆弾発言をしてしまったかな?

 

<すざきかずひこ:Irish pub field のおやじ・ただ、遊ぶためには、遊ぶだ けの感性が必要であることは忘れるべきではありませんが……。>        

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2006年11月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ セッションの現場

■ field 洲崎一彦

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 さて、今回は、私のこのコラムの基本に戻って、「セッションの現場」とい うことを考えてみたいと思う。

 というのは、先日、北海道で個人的にアイリッ シュ・セッションを主宰する方から、色々とセッションの苦労話をおうかがい する機会があったからだ。  

 まず、セッションを快くやらせてもらえるお店を探すのに一苦労だという話。  

 それはそうかもしれない。ある意味、この問題は京阪神でもあまり変わらな いと思う。私自身の経験からもそれは実感できる。というのは、field がアイ リッシュ・パブになる以前、カフェ・ギャラリーだった時代に、私たちは field で最初のアイリッシュ・セッションを始めたからだ。  field は私の経営する店だから別 に何を始めてもいい。はずなのだが、カ フェ・ギャラリーのお客さんにはアイリッシュ方式のセッションは唐突過ぎた。  

 カフェ・ギャラリー field は普段から決して「純喫茶」というわけではな く、もちろん、美術作品の展示は日常の風景だったし、ライブやパフォーマン スを展覧会とのコラボとして行ったりしていたから、何かとイベントの多いお 店ではあった。なのに、アイリッシュ・セッションは唐突だったのだ。  

 三々五々やってくる人々がおもむろに楽器を取り出して、店の一角を占領し て音楽の演奏が始まる。他のお客さんから見れば、それは、自分たちに向かっ て演奏されている光景ではなく、テーブルを囲んだ一団が輪になってお酒を飲 みながら音楽を勝手に演奏しているのだ。  

 直接、苦情を言ってくるお客さんは、さすがにいなかったけれど、 「ここは、あんなふうに勝手に音楽の練習をするのを許しているのですか?」 程度の皮肉は何度も言われた。「練習」という所がアンダーラインである。  

 あげくの果てに、セッションの日には一般のお客さんの足が遠のいた。  これが一般 社会なのだ、と思い知らされた。  

 例えば、絵は額縁に入っているから美術作品に見えるのと同様、音楽は演奏 者が聴衆に向かって演奏しているから音楽なのだ。そうでなければ、音楽は社 会的には「騒音」なのである。その「騒音」を止める手段を持たない立場から 見れば、それは一種の「暴力」と同じ質のものだ。  民度がどうのという次元の話ではない。それが、この社会の現実なのだ。内 容が良い悪いの問題でもない。表現活動というものは多かれ少なかれ、この同 じ宿命を持つ。  

 また、その頃、私は全く逆の立場で音楽の「暴力」を体験した。つまり、そ の私自身が状況さえ違えばこんなに頭が固かったという証拠になる。それはこ んなエピソードである。  

 当時、私たちはアイリッシュ音楽のバンドを作ったばかりだった。ある日、 そのバンドで、普段はロックなぞをやっているライブハウスでライブをしたの だった。アイリッシュ音楽のライブがまだ珍しかったせいか、ウワサを聞きつ けて多くの人々に足を運んでいただいた。  

 2ステージのライブがどーん!と終了し、アンコールもいただいてどっぱー ん!と全編めでたく終了した(その頃は集客が見込めたのでライブハウスでも 単独で出演させてくれたんですねー。今では想像もできませんが。それほどア イリッシュのライブが珍しかったというわけですね)。  

 ライブハウスの客席照明がつき、ごっついPAスピーカーからBGMが薄く流れ 始めたその時、客席中央の若者達がおもむろに楽器を取り出して突然演奏を始 めたのだ。  

 あ然、とした。  

 ライブハウスの従業員も、あまりに想定外のことが起こっているので対処の 方法がわからずに見て見ないふりをしている。あとで、そこの店長は、あの時 に私たちのバンドのメンバーから何か苦情が出たら止めさせに行くつもりだっ た、と自らの判断を放棄していた様を白状した。  

 確かに、ライブ1本を気持ちよく終えて、さて、観に来てくれたお客さんと 心地よい疲れと共に一緒に飲もう飲もう!がライブハウスのライブの醍醐味な のだが、そういう気分が完全に削がれたのは確かだ。不愉快というのではなく、 まさに想定外。  おまけに、低い音とは言え店のBGMが流れている所で、まして、ライブハウ スで、舞台じゃなくて客席で車座になって演奏!! 店の人間も対処を失った この不意打ちはまさに音楽のテロと言ってもいい。  

 後々、分かったことだが、彼らは彼らで、アイリッシュ・ミュージックを愛 してやまない学生諸君だった。彼らの中にはアイルランドへ行って実際に当地 のセッションを経験してきた猛者もいた。決して、悪気は無いのだ。確かに 少々エチケットには反するが、自分たちがライブで感動したことに対して敬意 を表する手段がライブ後のセッションだったというわけだ(ちなみに、その後 現在に至るまで、彼らの大学のサークルと field アイ研は深くお付き合いを させてもらうことになって行くのだが……)。  

 ここには若気の至りのちょっとした勘違いと強引さがあるにはあるが、他方 で我が店のセッションにおいて一般客の無理解に悩んでいた立場の私も頭が固 かった。つまり、ある特殊な立場から離れた瞬間、私も社会と同化していた。 結局、それが社会というものなのだ。  

 そして、その頃から・・・、正確には8年の月日が流れようとしている。京 阪神にもアイリッシュ・パブが何軒もできて、アイリッシュ・ミュージックの 市民権獲得の様は当時とは比較にならない程だ。  

 と、言って、いわゆる、自由なセッションが許されている店が増えたのかと 言えば実際はそうでもないのである。アイリッシュ・パブの看板を出している 店と言えど、曜日と時間を決めてライブ形式のセッションを組む所がほとんど だ。  

 何故か? それ以外の形式をこの社会が音楽と見なさないからだ。そこの部 分は全く変わっていない。  

 この意味では、field が7年前にアイリッシュ・パブに鞍替えした瞬間、  「ここでは、音楽的暴力が繰り広げられるよ」 と、社会に宣言したのであり、そのテロ行為を延々とこの7年間やり続けてい る音楽暴力酒場、というのが現在の field の社会的一面である。  

 社会というのはもろい側面も持っている。曰く、看板に弱い。  

「アイルランドではこんな風に音楽をするんですか?」  

「そうです」

 で、すべてが解決する(笑)。  

 前述の北海道の方の場合、月1回、自由なセッションができる店を確保して いるが、稀にリゾートのロッジを借りたり、その他は自宅に集まってセッショ ンするしかないのだとおっしゃっていた。  が、それはそれで、私たちには非常にうらやましい環境ではある。中流以下 の都市生活者にそれほどの住環境は無いし、また、気楽に行ける距離にリゾー トなど無い。  

 結局、ここが、京都であれ、北海道であれ、そこはアイルランドでは無いの だから。私たち、アイリッシュ・セッション愛好家は、  

「ひょっとしたら自分たちがやりたい行為は多分に暴力の要素を含んでいる かもしれない」  

 ということを肝に銘じなければならないのだと思う。

 

<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・例えば、絵画などは完成す るまでは密室の個人的作業で済むわけだが、音楽は楽器の練習段階から余程の 防音設備でも無い限りその垂れ流された音は誰かの耳に入る潜在的可能性を持 つ「危険物」ではあるまいか。>        

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2006年10月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ 伝説の Si-Folk ライヴ

■ field 洲崎一彦

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 Irish PUB field ができるずっと以前、私がCDで初めてケビンバークを聴い ていた頃、彼らはすでに演奏活動をしていた。たとえばそれは、アイルランド 旅行に行った知人が音楽に興味を持って現地のパブに通 っていると、日本から 来たのなら日本には大阪に○×というすごいミュージシャンがいるだろう、と 現地のアイリッシュ・ミュージシャンから聞かされたと言っては、彼らの名前 が私の耳に入り、あるいは、私がアイルランド音楽好きだということをどこか らか聞きつけて、はるばる他県からお越しになったお客さんが、こちらには○× さんは時々おいでになるのですか?と質問されては、また、私の耳に入る。  

 そうやって、少しづつ私の記憶の中に定着し、でもしかし、実態不明のまま field はパブ前夜を迎え、月に1度だけれど、アイリッシュセッションをやり 始めた時、その伝説のおひとりが遂に field に登場した。イーリアンパイプ、 ホイッスル、フルート、フィドル、ギター、マンドリン、バウロンとおよそア イリッシュ音楽に使われる楽器のほとんど全てを弾きこなす、原口トヨアキ氏 であった。  

 また、ある日、大阪のとあるアイリッシュパブでのセッションライブに偶然 のきっかけで私も演奏させていただく機会があった。その時はもう毎週そのパ ブでばりばり演奏している人たちに混じって大変ビビリながら演奏したのを今 でもよく覚えているが、そこで初めて御一緒させていただいたのがボタンア コーディオンの吉田文夫氏であった。寡黙にボタンアコを奏でる氏の印象は強 烈だった。  

 そして、その翌年から field はアイリッシュ・パブに変身を遂げて、突如、 毎週2回のセッションをやり始めたのだ。私はその頃はまだアイリッシュブ ズーキをやっとの思いで手に入れて丸1年ぐらいの時で、自分のブズーキ以外 のブズーキという楽器をまだ生で見たことがないような状態。つまり、自分以 外の人がブズーキを演奏している姿を生では一度も見たこともないような状態 であったのだ。そんな時、ある日のセッションに、私のとはちょっと違った高 級そうなブズーキを抱えている人がやって来た。その人の生の演奏を観て(聴 いて)大衝撃を受けた! へえ〜! ブズーキってそうやって弾くのかあああ ああ!とぶったまげたのであるが、彼はしばらくするとブズーキを置いて今度 はフィドルを弾き始めたのだ。むんずと弓をわしづかみにしたそのフォームか らは想像できないような流れるようなリールが飛び出して来て、これまたノッ クアウトされた。これが、ブズーキ、フィドル奏者の赤澤淳氏であった。  

 こうやって、私としては、別々に遭遇した怪物3人が、そのままの3人でバ ンドをやっているというのであった。なんというスーパーな事実か! そのバ ンドの名前を Si-Folk という。  

 しばらくして、 私たちは、field セッション常連の若者を中心に、field アイルランド音楽研究会なるサークルを立ち上げたのであるが、迷わず、この 御三人の怪物に「サークルの顧問の先生」をお願いした。  

 その後、field のセッションも、サークルの活動もぼちぼちと動き初め、 field では不定期にライブやライブパーティーも行うようになって、徐々にア イリッシュ・ミュージック・パブとしての活動が定着して行くことになる。そ して、事あるごとに、そのウワサに聞いていた顧問の先生たちのスーパーバン ド、Si-Folk にラブコールを送り続けたのだが、いつも決まって、何かしらの トラブルが発生して三先生全員がそろわない。  

 おひとりおひとりとは、それなりにお付き合いをさせていただくようになっ たにも関わらず、どうしても、3人そろってお目にかかれない。もしかしたら、 誰と誰は実は同一人物やったりして・・・というぐらい実現しない。  

 その間に、field にはアルタンが来る、ドーナル・ラニーが来る、アンデ ィ・アーバインが来る、ダービッシュが来ても、そのバンド、Si-Folk だけは 絶対に来なかった。何というハードルの高さか! ・・である。ミッション・ イムポシブルである。  

 CDは手に入れた。これが、すごい。本当にすごかった。初めて聴いた時はど のアイリッシュCDより良いと思った。これホンマに日本人が演奏してるんか?!  というわけで、このCDはすっかり私の愛聴盤になっているのだが、しかし、そ れは(彼らは)もう、CDの中のヒーローであって、つまり、ケヴィン・バーク やドロレス・ケーンなのであって、私の中では半ば現実の存在ではなくなって 行くのだった。  

 そんな経緯を経て、また最近では、活動のウワサも聞かなくなったし、私に とって Si-Folk は完全に「幻のスーパーバンド」として確立していた。  

 夏も終わりのある時、吉田氏から一通のメールがとどいた。今度、field で、 Si-Folk に2人の新メンバーを加えた5人編成の Si-Folk のライブをしたい が、どうか?って。どうかもクソもない! ゆめ幻の Si-Folk は現存した!  おまけに、その新メンバーの1人は、かつての field にふらりとやって来て 彼らの存在を私に教えてくれた奴、その後、パブになってからの当初のセッ ションを支え共に field アイ研を立ち上げたA君じゃあないか!?完全に国 宝級である。オカルト級である。この感激は身の毛がよだつというものだった。  

 待ちに待った ライブ当日がやって来た。リハーサルが終わった頃合いに、 私は、あたりにうろうろする人影ひとつひとつを確認するように目で追った。 まずは、同じ視界にこの三先生のお姿を捉えなければ、三先生がそれぞれ別 々 の人間であることを検証できない。  

 ふと、気が付くと、おお! 三先生は並んで私の前に立っておられた。私の 内心を見透かすように御三人ともニヤニヤ満面の笑顔で! オカルトじゃ。  いや、本当にオカルトかもしれん。どことなく普段知っている三氏と雰囲気 が違う。三氏とも全体的にダレている。なぜだ!なぜこの話、ここまで来てダ レてるんやあ!  特に赤澤氏などニヤニヤさ加減とダヨンダヨンさ加減がいつもの3倍ぐらい になってるぞ。  

 入れ替わりに、新メンバーの2人がやって来た。おなじみの2人。特にA君 は・・・と思いきや。この2人、様子が変! 全然いつもと違う雰囲気やんけ。 ニコニコはしている。しているのだが、どっか引きつってる。  

 

 この前練習があったんですよお。そしたらね、あの3人がウチに来るんです よお!あの3人がそろってウチにね。来ちゃったんですよ!  

 そら、練習に来るんやから3人そろって来るやろ。(私、心の声)  

 練習しなきゃいかんのにね。それで、まずは記念写真撮ろうとか、そんな感 じになっちゃってえ。  

 写真撮った、でええやろが、記念写真って言わんでも。(私、心の声)  ???? 

 とにかく変。  さて、どんな音を出すんじゃろか?あの5人・・・。少し不安。(私、心の声)  

 

 さて、ライブが始まる。え? いや、はい、始まってるようです。  そうです。フェイドインです。ライブの技にフェイドインなんてあったの か!というぐらい不意をつかれたのだった。気が付いたら始まってた。詳しく 言うと、MCかな?と思わせといて、実は演奏が始まってたのでした。この辺の 技は忍法に近い。  

 フワっとした浮遊感に身を任せたようなダンスチューンが「つるり」と演奏 される。始まりはオリジナルメンバーの3人、そう、つまり、まさにその三怪 物というか三先生の夢にまで見たアンサンブル。第一印象は、意外にも、う お!っという感じじゃなかった。「つるつる つるり」っていう感じだった。  

 最近は、若い人たちの演奏に接する事が多かったせいか、思ったより迫力に 欠けると思った。最初は少しそう思った。しかし、欠けているのは迫力ではな くて、(良い言葉がみつからないが)、「押しつけがましさ」だ。言葉が悪け れば、「どうや! ワシらの演奏は! かっこええやろ!」というセコセコし た直線的な感じとでも言おうか。余裕がないが故にウケを求める切羽詰まった 感じとでも言おうか。そういう風に感じられる引っかかりが皆無。つまり、 「つるつる つるり」なのだ。  

 温度、湿度の変化をモロに受けるイーリアンパイプは、はっきり言って音程 が甘かった。また、特に最初の方はフィドルとアコーディオンのリズムが少し ずれていた。しかし、その完璧じゃない所が「つるつる つるり」を醸し出し ているとも言える。本人たちも気づいているだろうそういう部分に焦った素振 りを全く感じさせない。むしろ、逆手に取って楽しんでいる。全然、頑張って いない。これが、えも言えず格好良い。    

 普段、私は二言目には「ノリ」だ、「ビート」だなどとボヤいているわけだ が、そんなことが恥ずかしくなって来る。今、目の前で繰り広げられている演 奏は、良質なセンスと長い経験に裏打ちされている確固たるモノなのだった。  

 敢えて「ビート」的に言えば、この人たちはそれぞれに自分の中に確かな ビートを持っている。しかし、それは、3人ともそっくり同じものを持ってい るわけではないようだ。それが、曲ごとに、フレーズごとに誰が先頭を切るか 瞬時に刻々と変化する。3人は瞬時にこれに対応しているのだ。決して混乱は 見せない。これはフリージャズのアドリブに近いスピード感だ。アイリッシュ はメロディを崩すという奏法が無く基本的にユニゾンの応酬だから、それほど のスピード感でジャズで言う所のアドリブ能力を発揮しているなんて、ぱっと 観は誰も気が付かないだろう。  それが、証拠に、一緒にポンポンと拍を取りながら聴いてみると、びっくり するような意外に早いテンポなのだ。これを、「早い」と感じさせず、3人が それぞれのビートを隠し持って、全体が「つるつる つるり」と流れるのだか ら、これを何と表現したら良いものか。  

 ある意味、この3人でのリハーサルは不足していたのだろう。しかし、これ でリハを重ねれば、それこそアドリブ能力を発揮するまでもなく、それぞれの ビートを収束させたり拡散させたり自由自在に操るようになるのだろうかと思 うと、まさに、身の毛がよだつ。そんな演奏はオカルトの域だ。いや、国宝級 だ。  

 そこへ、新メンバーの2人が加わった。ギターとコンサーティーナ&フルー ト。原口氏はイーリアンパイプとホイッスルとマンドリンを持ち替え持ち替え、 赤澤氏もフィドルとブズーキを持ち替え持ち替え、豪華なアンサンブルが続い て行く。  

 新しい2人が加わってからというもの、さすがにこの2人は緊張感いっぱい なのだが、逆に、本家3人はますますリラックス度が上がって来る。ある意味、 緊張感いっぱいの2人に任せて遊んでいるというかサボっているというか。何 よりも、楽しんでいるのがズンズン伝わって来る。「つるつる つるり」が いっそう滑らかになる。こういうの、計算して出来るものだろうか? 

 でもや はり、恐らくこの新メンバーを引き入れたのが三先生達なのだから、この2人 を加えれば自分たちはこういう具合に楽しめるという所は確信犯なのだろう。 つまり、メンバー選出から名人芸は始まっていたのだ。  

 そして、恐ろしく長い中休みを経て、第二ステージが始まった。驚きを持っ て観た第一ステージ。楽しみ方を心得て観た第二ステージ。

 そう。5人は一様に静にたたずんでいるのだ。この一見地味なたたまいは観 客の方の脱力をも誘う。構えを解かせておいて、しばしば突然に強烈なビート が飛び出してくる。各人から何種類ものビートが順次飛び出してきて、音の中 心がクルクル変化する。時折、新メンバーにその中心を預けておいて、おじさ ん達はそれなりに手を抜いたり遊んだりして、うしろで、きゃっきゃと遊んで いる。    

 そうなのだ。ロックバンドのように、客席に中指を突き立てて「ノリ」を煽 るような音楽ではないのだ、アイリッシュというのは。 この心地よさは、長らく忘れていたものだった。  

 最後の曲が終わった。アンコールの拍手がわき起こる。吉田氏はマイクに向 かってぼそぼそっと何かしゃべった。え?今、何言うたん?  

 そこらここらで、楽器を持ったお客さんが自分の楽器をケースから出し始め た。そして、バンドがアンコール曲を演奏する。そこらここらで、客席からも それぞれの楽器の音が鳴り始める。みんな少しづつステージ側ににじり寄って、 3曲目あたりでは完全にステージの5人を中心とした大セッションになってい た。バンドはアンコール曲を演奏したのではなかったのだ。  

 こんな光景・・・・初めて見た。バンドがステージにそのままの状態で、ラ イブの続きで、気が付いたら店内これ大セッションだなんて!

 吉田氏が最後にマイクでつぶやいたのは  

「楽器持ってる人たくさんいるみたいなので、セッションしましょう」  

だったらしい。

 

<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・人生経験とか人間性とか、 そういうのはそのまま音になってしまいます。>

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2006年9月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ 言葉で言い現す事の限界

■ field 洲崎一彦

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 8月の終わりに、滋賀県高島市のキャンプ場で恒例のアイリッシュ・キャ ンプが行われた。毎年これには、けっこう色々な地域から様々なアイリッ シュ・ミュージック・ファンが集まって来るので、引っ込み思案な我が field アイ研の面 々にとっても視野を広げる良い機会になっている。  

 新しい出会いあり、毎年このキャンプの時だけ顔を合わせる人、普段はあ まり会えなくなった旧知の人たちとも再会を楽しむことができる、とてもい い場所だ。  今年のアイ研は、どうちらかというとニューフェイスが集まって平均年齢 が例年よりぐーんと下がったので、私など、引率の先生役をきっちりと務め なくてはならないのだが、けっこうサボってしまいました。  

 毎年、アイ研は何かとまわりにご迷惑をおかけしているのですが、今年も ちょこちょこやっちゃったようです。ご関係各所の皆様、申し訳ありません でした。「ようです」というのは、私が夜中に帰った後の事なのでというい かにも責任逃れな発言で嫌らしいですね。ごめんなさい。  

 というわけで、問題も無くはなかったのですが、初めて参加するアイ研の 若いコ達がけっこう楽しんでくれたのは喜ばしいことでした。  

 そんな、キャンプの夜は、参加者全員が一緒にセッションできるセッショ ン・タイムがあります。会場が割と広いので、大勢で一曲を同時にわっとや るというような流れにはあまりならず、コーナーコーナーで違う曲を演奏し たりしているんですが、大屋根の下にテーブルとベンチを配して壁が無いと いうようなキャンプ場独特の施設なので、音がワンワン響かず、それはそれ で結構いい雰囲気になります。  

 この、セッション終了間近の一時。会場の隅っこで、蛇腹人がお二人向か い合ってガシガシとセッションされているのが気になりました。スキがあれ ば割り込んで参加してみようと邪心を起こしながらそろりそろりとその一角 に接近しておったのですが、たぶん同じような心得のムーミン君(アイ研) も気が付けば私の横に来ておりまして、そしてまた気が付けば、それはA&H さん達の陣地をかすめるような位 置関係になったおったのです。  

 A&Hさんは、ギター&コンサーティーナ(and フルート)のお二人で、 二人とも古いアイ研部員です。今ではお住いも京都ではないため、最近は普 段滅多に一緒にセッションする機会が無いお二人です。  

 私とムーミン君が蛇腹合戦に気を取られて、 A&Hさんの陣地に気が付か ずに恐る恐る蛇腹チューンを確認してすうっと演奏に割り込んで行ったその 時。  

 背後から、なんとも心地よいコンサーティーナの音色がスルっと私たちを 追いかけて来たのです。まだ少し距離のあった蛇腹合戦本隊よりも遙かに接 近戦で、ほぼ背面から受けた銃撃にひるむ私たちは、次の瞬間まるで宙に浮 いていました。  特に、ムーミン君のフィドルと銃撃コンサーティーナがうねるように絡む そのリールのビートは、これまで私が体験したどんなセッションにもあり得 なかった穏やかなスウィングを発生させていました。  

 で、その曲が終わるや否や、私とムーミン君は顔を見合わせていて、お互 いに  

「何? 今の?」 という会話を目で交わし、

そのコンサーティーナの主であるHさんに  

「何? 今の?」 と、声を出して話しかけておった。  

 気が付くと、傍らにいたA君も交えて、セッションも忘れてさっきのリー ルの話をネタにああでもないこうでもないの議論に発展。

 私やムーミン君が常々口から泡を吹きながら論議している「ビート」論で 言えば、さっきのリールは明らかに2拍目にアクセントがあって、1拍目が プッシュ(突っ込みが早い)している。現にムーミン君はそのようにフィド ルを弾いていた。  

 しかし、A&Hさんが言うには、さっきのリールは1拍目にアクセントが あって、しかも、その1拍目が他の拍より長い、あるいはモタついている。  

 これは、多くの点で、逆の意味の事を言っているではないか。でもしかし、 一緒に演奏するとああいう事になっていた。この辺は実に面白い。  異なる要素を持ったものが合わさることで予想外の効果 をもたらせたのか? しかし、この理屈は言葉上は論理的だが、実際の音楽の現場では異なるモノ がぶつかると混沌を生む場合の方が多い。  

 音楽現場の確率を考えると、ムーミン君とHさんは結果として同じタイミ ングで音を出していた可能性の方が高い。  

 A君も同じポイントに興味を示し、これはもっとじっくり話たいですねえ、 という展開になり始めた時、そこでのセッション時間が終了し、一旦解散し て、それぞれ自分たちのバンガローやテントに引き上げるという段になった。  

 それで、結局、この時の議論は極めて中途半端に中断したままなのだが。  

 それにしても、音楽を言葉で言い表す事のいい加減さと言ったら……。

 

<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・音楽は音で伝えるものだ が、音で伝わらないもどかしさについ言葉を使うとそこからもう底なし沼や もしれん。>                       

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2006年8月

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■ field どたばたセッションの現場から

■fieldアイ研の現在 

■ field 洲崎一彦

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 いやもう、ちょっと夏バテ気味です。今年は梅雨が長かったせいか、ただで も湿度の高い京都、ここに太陽光線が降り注ぐと、もうどうしょうもなくなる。 低気圧が遠のいて少し湿度が下がると、気温が上がっても案外不快ではないこ とに今更のように感心するが、天気予報の天気図にちょっとでも台風なんかが 顔を出すと、途端に湿度計がぐんぐん上がる。私は若い時から京都にいるが、 こういうことに敏感になるのもトシのせいかと愕然とする・・・。  

 こんな状態でいると、音楽は音楽で暑苦しい。聴くのも、演るのも暑苦しい。 もう、どうでも良くなって来るよ。  

 とまあ、そんなタイミングで、field は Summer Party の時期を迎えた。本 来は、パブ以前の cafe field がオープンしたオープン記念のパーティーだっ た。それが、パブに変わったのが2000年1月だったので、いわゆる「何周年」 パーティーというのは1月になってしまったわけで、夏は習慣的に Summer Party として残ったのだ。だが、本当は、今年の夏は cafe field から数えて19周年 にあたる。  

 これも、また、中途半端な! でも、20周年などということになればなった で自分でもちょっと驚いてしまうし、今年はまあ、例年通り普通に Summer Party をしようと、淡々と準備をした。  

 field の通常のパーティーの基本形は、ステージで入れ替わり立ち替わりア イ研の色々なバンドや臨時ユニットが生演奏し、その合間に、アイリッシュDJ がターンテーブルを回す。  

 お客さん達は飲み物を片手に、好きな場所に移動しながら色々な人達と会話 をしたり、ステージ前に分け入って演奏に野次を飛ばしたりして気ままな時間 を過ごしていただく。というそんなスタイルである。  

 今年の Summer Party では、DJに、以前ここにも書いたことがあるミンチー 君が久しぶりに復活した。また、例年、夏のパーティーは8月初めの世間一般的に夏イベント密集時期か、花火大会、お盆、などに影響されて、人の集まり はあまり良くない。けれど、今年は、気が付いてみると、出演希望バンドは膨 れ上がり、けっこう普通 にお客さんも集まってくれた。  

 パーティーでのバンドやユニットの顔ぶれは、その時々のアイ研の状態を如 実に物語る。やはり、その時、元気のいい奴らが出て来るのは当然なのだが、 その時々で、  

「あいつ、最近元気無いからユニットに誘ってみようか」 とか  

「俺はこの頃ちょっと雰囲気に乗り遅れていたから、この辺で一発アピール するたい!」 とか  

「前々から、あの人と一緒に演奏したかったので、一度誘ってみよう」  というように、

 パーティー出演は、アイ研内の人間関係を活性化させるひと つの装置として機能している面 があるのだ。

 このような field のパーティー は、1月のパブ・アニバーサリー、3月のセントパトリックス、8月の Summer Party 、10月のハロウウィン、12月のクリスマスで、年にだいたい5回あるの だが、今のこの時期、3月から8月の間が一番期間が空いてしまう。そういう意 味でも、例年 Summer Party はちょっとした穴になっていて、出演者ももうひ とつ活気付かなかったものだ。  

 それが、今年は様子が違っていた! 気を抜いていた私は時間割をミスして、 予定枠数以上のユニットの出演依頼を受け付けてしまった、それぐらい虚を突 かれた。  大学生たちが中心になった初心者バンドや、もはや中堅所となった面々。お 久しぶりのグリーンフィドラーや、ぶちょーが引っぱり出して来たアイ研創設 メンバーA氏。それに、私が以前、功刀君とやってたデュオ「Old field」の何 年か振りの演奏などなど、フタを開けてみれば、field アイ研の新旧取り混ぜ たバラエティーに富んだステージとなっていたのだ。  

 そして、何よりも私自身が楽しんだ。酒も飲んだ。この所、普段から暑苦し い事ばかり言ってた自分が嫌になった。もう、面倒なことはどうでもええ!  こうやって、みんな楽しんでるやないかー。  

 パーティーの最後には、功刀君のヒット曲〈すずめ蜂〜〉をやるから弾ける 奴はステージに集合!!とマイクで怒鳴る。  

 もはや、field アイ研にも、功刀君の存在がアイリッシュに興味を持った きっかけだという若者が結構いるのだ。彼らはアイ研に来る以前、〈すずめ蜂 〜〉を必死にコピーし採譜してたというような奴らだ。  

 酔っぱらいながらも、いつもより更に高速でこの〈すずめ蜂〜〉をぶっとば してくれた功刀君のサービスもさることながら、喜々としてステージに駆け上 がって来た連中の反応も気持ちいい。  

 まあ、功刀君は功刀君で、極めて自然に field アイ研の先輩部員として振 る舞い、若者達は若者達で、自然に後輩然として振る舞うこの光景に接して、 ああ、やっと、アイ研はサークルになったんやな〜。という実感が湧いて来た ものだ。  

 あるいは、私がまた一段と年老いたか・・・・・

<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・音楽は聴いて楽しむ、演っ て楽しむ。それと、参加して楽しむというのがあるなー。>                         

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2006年7月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ 「ビート」の人 

■ field 洲崎一彦

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 普段から、ここ、クランコラ誌上は言うに及ばず、色々な所で「ビート」「ビート」と日々念仏を唱えている私だが、先日、偶然に、この正真正銘の「ビート」の人に出会ってしまった!  現在の私の音楽環境では、ついぞ見かけなかった「ビート」の人。彼は「ビート」を楽しみ、それを駆使し、さらに、それを人に説明する方法と言葉を持っていた。あるいは、持っているかのように見えた。  

 それは、祇園祭宵山の夜に、まあ、偶然、fieldにやって来た、東京から来たという若いジャズマンだった。また、珍しいことに彼の楽器はバイオリンだったのだ。それで、雨で宵山セッションも早めにお開きになっていたのだが、そこに逃げ遅れたアイ研部員フィドラーがふたり。  

 その、ジャズマンはアイリッシュは全く知らないという。それで、一度聴かせてくれということで、居残りフィドラー2名と私ブズーキで、ちょこちょこっとリールのセットなんかをやる。  若干20歳台半ばの、そのジャズマンは、アイリッシュ・リールを1回聴いただけで、彼の持っている「ビート」感でビシビシ注文を付けてくる。あるいは、しまいには、アイリッシュ・リールを解説してくれる。  

 居残りフィドラーのひとり、明らかにちゅーちゅーのぼんつる(訳:気弱な下っ端)君の方に、自分のiPodからアフロジャズのバンドアンサンブルが入った音源を聴かせ、ぼんつる君にはそのカウントだけ言わせて、自分は何も聴かずに全くのバイオリン・ソロ・アドリブ。ぼんつる君の顔は見る見る青ざめて行く。ぼんつる君には、iPodの音と彼がセッションしているように聞こえてるのだ。何というトリッキーな仕掛けや! その、ぼんつる君は一瞬で彼の世界に引き込まれてしまった。  

 例えば、ア○ウェイの洗剤が、目の前でもの凄い汚れを落としてしまう雰囲気にも似てはいるが、この説得力は凄い。普段、練習会で、なかなか皆に伝わらない・・・とぼやいている私も、これにはぐっと身を乗り出す。  

 それから、4ビートのブルースセッションなどもする。ブズーキで4ビートジャズをやるのは初めてだが、これはこれで、なかなか気持ちいいかもしれん。さすがの彼は自由奔放なアドリブプレイ。その「ビート」感は紛れもなく本物なのだった。  

 かつて、私は、このクランコラ誌上で、バイオリンという楽器はアタックが弱いので4ビートジャズには向かないのではないかなどと書いたことを記憶しているが、彼の演奏は、バイオリンのそういう特性を逆手に取って独自の「ビート」感につなげている。楽器の操作が巧いというよりも、彼の感じているもの、彼の気持ちいいと思っていることが、「ビート」を通 してズンズン前に出て来る。  

 彼が使う言葉をよく聞いていると、「ビート」にしても「グルーブ」にしても、若干、私がイメージしているのと定義や論理が違うのだが、核心は突いている。  こういう風に「ビート」を語り、かつ、実際にそれそのものの音を出すミュージシャンに、実際に出会ったのは、私は、はるか昔の、村上ポンタ氏以来の出来事かもしれない。  

 彼の説得力は是非、参考にしたい。私は、このようなセコい考えから、彼のレクチャーの途中によけいな質問をしてみたり、ちゃちゃ入れたり、いろいろともがいていたのだが、さっきから、瞳孔開きっぱなしのぼんつる君と、ジャズも少しかじるもうひとりの居残りフィドラー氏の爛々と輝く瞳を見て、あ、っと気が付いた。  

 彼と、この2人の間には大きな誤解が横たわっている。  

 彼のレクチャーは、非常に実践的で具体的なので、つい、ははーん、と感心してしまうのだが、瞳孔開きっぱなしのぼんつる君がよだれを垂らしながらこんな質問をした。

「それで・・・、ぼくは、どんな練習をすればいいのですか?」

「・・・・・・・」  

 そうなのだ。  彼は、「ビート」感が弱い、あるいは、ほとんどそれを感じたことが無い人が音楽を演奏しているという事実があり得るのだということを全く認識していなかった。最低限の「ビート」感を当然とした上で、それを、どうやってより効果 的に表現するかを具体的にレクチャーしていたのだった。  

 これは、本場のアイリッシュマンがリールを教える時に、やたら、装飾音しか教えない図によく似ている。「その前提」が当然あるであろう同じアイルランド人に教えるように、「その前提」が全く無い我々異邦人に同じように教えてしまう、あの現象。  

 こちらとすれば、凄く具体的で有効なレクチャーを受けたような気持ちになるのだが、一晩寝ると何がなんだか分からなくなっている、あの現象。  

 そして、ぼんつる君はつぶやいた。

 「ぼくは、アイリッシュをやめて、ジャズをやろうかな」    

 まあ、それならそれでええんやけど・・・・・・。

 

<洲崎一彦:Irish pub field のおやじ・音楽の自由さと、不自由さは表裏一体でかつ、そのバランスは深淵。やっかいなモンやな。>    

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2006年6月

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■ field どたばたセッションの現場から ■

■ 音楽欲望 

■ field 洲崎一彦

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 うーん。少し悩んでます。きっかけは、例の練習会です。  

 なかなか、分かって欲しいことが伝わらないのです。あ、それそれ! と、思っても、次の段階に行くと完全に勘違いして理解されていることが判る。  もちろん、こっちの説明の仕方が良くないのだとは思う。もっと、スカッと説明する方法があるのかもしれない。    

 ここで、一抹の不安がよぎる。このクランコラ誌上で、月1回程の頻度で文章を書く、というこの表現で、どれくらいの読者に、私が以前からしつこく問題提議している「ビート」の問題が、どの程度、どのように伝わっているのだろうか。単なる言葉遊び程に受け止められている確率の方が高いのではないだろうかという不安。  

 ようするに、何も伝わっていないという不安です。  

 では、私の問題提議そのものが不適当なものなのか。あるいは、「ビート」を楽しむ音楽姿勢そのものが余りにマニアックなものなのか。そのあたりも一度疑ってみなければいけないのかもしれないと思ったりもする。  

 例えば、何か「良い演奏」とされるライブを観たとする。10人の人間が「良い」と思ったとする。では、その10人は「どのような点」を良いと思ったのか。これが、しばしば、10人が10人ともにバラバラだったりするだろう。個人が個人の嗜好で「良い」と思う点が違っても、それは当たり前だし、これが揃わなければウソだと言っているわけではない。私が言うのは、それぞれ目の付け所が違っても、「良い」と思わせたものは何なのか、という事だ。  音楽的に難しい分析などしなくても、ある程度の音楽条件が整っていれば、音楽は音楽としてダイレクトに聴く者に何らかのインパクトを与える。それは理屈ではない。  

 その上で、「どこが良かった?」とたずねられれば、皆それぞれに、意識化できる、あるいは言語化できるものに転嫁してそれを語るだろう。

「カッコ良かった」

「楽しそうだった」

「すごく早く指が動くのに驚いた」

「弾いている時の表情がよかった」

「あんな風に自由自在に楽器が弾けるのに感動した」

「美しい音色に酔ってしまった」 ・・・等々。  

 私は、それらの各人の各々に意識化されたものを一蹴して、「全部ちがう! 要はこれだ!」と叫んでいるに過ぎないのだろうか。  

 音楽の楽しみ方は、それぞれ、個人個人の自由なんじゃないか。という意見には私もしばしば心が揺らぐ。全くそのとおりだ。それはどこまで行っても自由です。  

 ただ、音楽の楽しみ方には、「純粋な楽しみ」に付随する色々な「欲望」が付きまとう。この「欲望」はしばしば「当然」と解釈されるのかもしれないが、私の考え方では、これら全部が「音楽」の邪魔をしているようにしか見えない。  

 曰く 「もっと上手くなりたい」

あるいは、 「あの人のように、上手くなりたい」

さらには 「あの人よりも、上手くなりたい」  

 このあたりで止まれば、それは一種の「向上欲」と解釈もできる。  しかし、この話は「楽しみ」の問題である。音楽は感じるもので、「気持ち良いか、良くないか」という価値尺度であるべきだ。知識や技術の習得を云々する問題ではない。つまり、「向上欲」からは何も生まれないのだ。むしろ、「楽しむ欲望」が必要とされるのだ。過度な「向上欲」はしばしば「楽しむ欲望」を抑圧するのではないか。

 次に頭をもたげる「欲望」は、

「人を感動させたい」の類。

 このあたりから、話はもはや怪しくなって来る。  

 よーく考えてみて欲しい。他者の心の問題をどうにかしようと欲しているのである。これほど不遜な考えがあるだろうか! ヒステリックな社会派風に言えば、この考え方は 「基本的人権の侵害に通じる!」  

 「人が感動する」のは、あくまで、作為の無い結果論であり、自分の音楽行為の「副産物」でしかあり得ないはずだ。  

 ひとつの落とし穴は「求められる」という状況である。「求められる」ことに応じるのは不遜でも何でもない。しかし、ここに発生する需要と供給の関係は普通 に考える「商品」のように純粋経済上の関係でない限り複雑を極める。  

 例えは悪いが、「強姦か和姦か」ほどの微妙さを内包する。さらに言うと、これに関わる人々は構造的には「強姦」であるものを、需要側供給側の暗黙の空気でもって無理矢理「和姦」であると信じ込もうとしているというバイアスが存在すると感じるのは私だけだろうか。  確かに、これは、「何か」を楽しもうとする姿勢とルールではある。が、これは音楽の「純粋な楽しみ」とはほど遠いゲームではなかろうか。  

 そういう意味では、 「お金を稼ぎたい」  

 という所に来る方が、どれほどか健全である。自分の音楽価値を「お金」という社会価値に変換して認識しようとしているのだから、すこぶる冷静だと言える。  

 しかし、少しでも「お金」に変換してしまった果てに 「お金を稼がなければならない」  

 という場所に行き着いてしまう場合があるだろう。日本の大多数のプロミュージシャンがこの場所にいるのだと思う。  

 ここで、当初の「楽しむ欲望」が保てる人が果たして何人いるのだろうか。(そういう人が実際にいるとすれば、それはそうとう心の強い人間か、そうとう無神経な人間であろうと想像できるのだが・・・・)  

 ううんと、何を言いたかったのか〜。今回はまったくまとまらないぞ。・・・・ごめんなさい。  

 つまり、音楽を「楽しむ欲望」を持って、素の気持ちで、私の話に耳を傾けてほしいのです。これは、他者の(皆さんの)心の問題をどうにかしようと欲しているのでは決してありません。共感を欲しているのです。共感できる人達と共に音楽を聴き、音楽を演奏することで、私の音楽を「楽しむ欲望」は果 てしなく増幅して行くのですから。  

<洲崎一彦:Irish pub field のおやじ・何故、自分は音楽が好きなのか?音楽を演奏したいのか?今、ちょっとした転機を迎えているのかもしれない。>

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2006年5月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ 練習会実技編。まず、壁 

■field 洲崎一彦

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 さて、今回は、実質的に2月から始動した、「アンサンブル練習会」報告の 続きを書いてみます。この練習会の趣旨は3月のここの欄に長々と書いたので 省略しますが、要するに、「合奏」というものに対して、楽器の別 を問わない 共通概念を持つことで、たとえ、個人個人の楽器操作技術が未熟でも、心地よ い合奏ができる、という信念に基づいた練習をしようというものです。  

 3月にも書きましたが、まずは、音楽俗語として蔓延している「ビート」や 「ノリ」の指し示している意味を明確にします。その上で、この「ビート」と いう概念を「合奏」の、楽器の別 を問わない共通概念と仮定しました。  

 次はいよいよ「実習」なのであーる。  

 実は、こういう練習会を主催したものの、私自身、どこかでこの新しいカリ キュラムを学んで来たというわけでは無く、すべて、手探りなんである。無責 任と誹謗されるかもしれない。でも、「何か」やらないではおられなかったの だ。誹謗は覚悟するしかない。  

 とにかく、順番はまず「ビート」概念にたどり着く前段階の準備というか、 地均しがどれぐらい必要か、という問題だった。もちろん、個人差があるとは 思っていた。しかし、実際に蓋を開けてみると、この個人差たるや予想を遙か に超えていた。それこそ、各人の音楽歴や実際の楽器の巧さ拙さに全く無関係 にこの「個人差」が露わになっていく。特に、アイルランド人マテ夫君の参加 はこの練習会の土台そのものを揺るがす大激震となった!  

 まずは、「ビート」が具体的にどのようなものであるのかを体験してもらわ なくてはならない。この時の参加者各人は音楽に合わせて身体を揺らせる事は できた。でも、その「揺れ方」に色々な種類があることをはっきりイメージで きていなかった。となれば、実際に色々な種類で「揺れ」てみてもらわなくて はいけない。  

 残念ながら、こういう場合の例にアイリッシュ・ダンス・チューンは「一目 瞭然」でない分、不適切である。選んだ例CDは、往年のディスコ・ミュージッ ク・バンド「シック」と、ハードロックの祖「ディープ・パープル」である。 理屈では、この両者の音楽にある「ビート」の差は16ビートと8ビートなのだ が、そんなことはどうでもいい。この両者の音楽に身を揺らせた時にその「揺 れ」方が違うということを身体で感じてもらわないと、何も始まらない。  

 ここで、もう、すでに、各人の「個人差」がどうしようもなく露呈すること になる。何となく分かったような素振りを見せるのは、元々スポーツをしてい て、ヒップホップ・ダンスをかじっていたような奴だった。  などと聞けば、さもありなん、なのだが、彼は中学生の頃、相撲をしていた という。相撲には鉄砲突きという練習があって、下半身にどっしりと重心を落 としたままで前に出る足運びをしながら、腕を後ろから前、下から上にせり出 して行く。この時、足が前に出るのと、腕が前に出るのとでは若干の時間差が できて、足と腕の運動の関係がムチのようにしなるという。  ・・・・確かにそれや! それが、俗に言う「よこノリ」の雰囲気じゃ。    

 音楽俗語に「よこノリ」「たてノリ」というのがある。それも知らない人が 多かったので、最近は死語なのかもしれない。が、かつては、これはよく言っ た。演奏する立場の人はもちろん、リスナーもこの言葉はよく使ったと思う。  

 元々は、何から言い出したのかはよく知らない。が、恐らくは、モダンジャ ズのスウィングが注目され、あるいは、サンバなどのラテン音楽が日本に入っ て来た時代か・・・。  たぶん、初めは「よこノリ」という概念が新鮮だった。というか、皆、よく 分からなかった。だから、必死になってそのイメージをつかもうとした。それ で、後に、このイメージで捉えられない音楽に接した時に「たてノリ」という 語が生まれたのではないかと想像する。  

 ようするに、彼の相撲話は、このへんのヒントになったのだ。「何ビート」 なんて今はもうどうでもいい。この「よこノリ」と「たてノリ」の違いを感じ てもらおう。  

 すると今度は、ああ、何という事か! 珍しいと言えば珍しいのかもしれな いアフリカ&イタリア系アイルランド人のマテ夫君! 彼には、どんなに説明 しても「たてノリ」のイメージが分かってもらえない! 私の英語が下手!と いうのを通り越して、何と言うか・・・、何を聴かせても、音楽であれば「よ こノリ」しか感じないと言うわけだ。  他の人たちは、まず「たてノリ」をすぐにイメージしてから次に「よこノ リ」に四苦八苦しているという、そんな場所で!

 

注)完全な「たてノリ」は、up & down のみで、強弱も無いとして良いと思う。 昔のアナログ時代の打ち込み音楽である黎明期のテクノなどはこれに近い。が、 「よこノリ」のバリエーションが増えて来た80年代以降、強弱のみの2拍子に 感じられるものも「たてノリ」と称されるようになった。今から考えれば、ハ ウス・ミュージックと呼ばれたものがこれにあたるのではないかと思う。かつ て、一世を風靡したユーロ・ビートも「たてノリ」になるのかもしれない。  

 

 これは、よくよく考えると、恐ろしい発見ではないか。マテ夫君によると、 彼の知る限りでは、音楽に「よこノリ」と「たてノリ」の概念の違いがあるな んて聞いたことがないという。たまたま、彼のアイルランドでの音楽環境がそ うだったのか、もしくは、これは、相当恐ろしいことだが、そんな分け方、日 本でしかしていないのか!?  

 もし、そうなら、日本人が西洋音楽を聴く演るということと、西洋人の同様 の行為とは根本的に全く違うことをしていたということではないのか!  私にしても、例えばクラシック音楽には「たて」も「よこ」も無いだろうと 勝手に思い込んでいたわけだが、彼らは全部「よこ」なのだから、クラシック にも「よこ」を見出すのだとしたら・・・・、  クラシック音楽にも、ここで問題にしようとしている「ビート」概念が存在 していることになる。少なくとも、彼ら西洋人はそのように扱っているのか!   

・・・・・・・・・  

 練習会はどうなったかって? そうそう、そうでした。話をそこへ戻さなけ ればなりませんね。  それで、ですね。じゃあ、マテ夫君の身体の動きを真似してみよう! とか、 マテ夫君の歩き方を観察してみよう! とか、では、マテ夫君と一緒に皆で歩 いてみよう!  とか、  相撲の突き手をやってみるぞ!ほれ! どすこい! どすこい! とか、  だんだん、知らない人が見たら  

「何の集会ですか〜?」 と、思われてるような集まりになって行くのですねー。  

 この練習会、早くも失敗ですか? 誹謗を受ける前に自爆ということでしょ うか?  いやいや、こんな幼稚園のお遊戯状態になってもまだ参加してくれる人がい るんやから、・・・・信じて前進します!(それでも、マテ夫君は通ってくれ ているのです。はい。)   

 いよいよ、前途多難な「珍練習会」になってまいりました。さて、先はど うなりますることやら。  どなたか、前述の、西洋のクラシック音楽家はクラシック音楽に「ビート」 あるいは「よこノリ」を感じているのかどうかという疑問。もし、詳しい方が おいででしたら、是非、その答を教えてください。

<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・今月末、久々に人前でアイ リッシュを演奏するのだが、最近エラそうなことばかり吠えているのでちょっ と気が引けるなあ・・・・・>                  

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2006年4月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ パット&オウイン のミニライブ 

■ field 洲崎一彦

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 さて、今回は、アンサンブル練習会報告の続きを予告していましたが、久々に興奮を覚えたライブに接する機会があったので、こっちを割り込ませることにします。  

 でも、はじめにに、何故、興奮を覚えたのかを少し書きます。  

 ライブのレビューと言えば、だいたい音を言葉で現さなくてはならない事自体しんどいもんです。伝えたい。でも、これじゃ伝わらない。というもどかしさにいつも身悶えしなければいけないわけですが、観察点を何か具体的なポイントに絞ることで、少しは伝えたいことがよりはっきりと伝わるのではないかという期待を持ってしまいます。  

 そして、このライブが、上記の練習会ででも、また、昨年からのこの場所での私自身の駄 文中ででも繰り返し吠え続けて来た「ビート」の問題を浮き彫りにする側面を持っていたこと。これがまずは、私にとって充分に興奮に値する。同時に、この部分にポイントを絞って観察する。観察したい。いや、ひたすら観察してしまった。というわけです。  

 

 パット・オコナー(Pat O'Connor)はクレア州エニス出身のフィドル奏者。現在はクレア州の中でも最も音楽が盛んな地域のひとつであるフィークルに居を構え、この地域を代表するフィドル奏者のひとりである。演奏活動のかたわら、フィドルレッスン、フィドルの修理、製作も手がけている。「The Green Mountain」「The Humours of Derrybeha」の二枚のソロアルバムを発表している。  

 オウイン・オサリヴァン(Eoghan O'Sullivan)はコーク州ミッチェルズタウン出身のアコーディオン、フルート奏者。現在はアイルランド各地の音楽フェスティバルでさまざまな楽器を対象にしたレッスンやワークショップを行っている。フィドル奏者のジェリー・ハリントンと組んだ「Sceal Eile」「The Smokey Chimney」の二枚のアルバムを発表している。  

 

 恐らく、事前にやる曲やセットなんて決めてないんやろうな。ぼそぼそっと2〜3言打ち合わせして、唐突にどちらかが演奏し始めたと思うと片方がすっと追いついてBメロが終わる頃には二人の「ビート」はもうウネっている。  

 正確にはふたりは個々には違う「ビート」感を持っているのだと思う。それは、足踏みの、靴が床をヒットする雰囲気がまるで違うことから推測できる。  前半はパットは両足で軽やかに床を踏んでいたが、オウインは右足を股関節から大きく脚全体を上に持ち上げてどすんどすんと踏み降ろしていた。オウインの踏み方は靴が床に音を立ててヒットするが、実はその脚全体を股関節から持ち上げる時が一番身体に力が入るはずだ。つまり、足音は表拍で出ているか、本人が力を入れなくてはいけないのは裏拍になるのだ。この時のパットは両足踏みをしているのだが、ちょうど左足がこの裏拍になる。しかし、安定してくると、この左足の動きがぴたりと止まる。足踏みは右足で軽く床をヒットするようになり、腰から上が微妙に動き出す。  

 つまり、お互い微妙に違う「ビート」の感じ方をしながら、たぶん、裏拍の位 置さえ見定めれば後は自由自在というわけなのだろう。少し離れては寄り添い、少し離れては寄り添う繰り返しの中で互いの「ビート」感は「絡み合う」という状態になり、元々は微妙に違う二種類の「ビート」が束のようになってムチのようにしなるのだ。気が付くと、表拍は常に前に前に押し出され、恐らくここでテンポが少し走るのだろうが、いわゆる、「走る」ほどには加速しない。これが「プッシュ」だ。一拍目のポイントが微妙に早いだけなのだが、これが、いわゆる、フィドルとアコーディオンという比較的アタックの弱い楽器2台だけで成立していることが魔法のようなのだ(ジャズコンボでは、このプッシュが、ライドシンバルのレガートとベースランニングの経過音の横滑り感によって演出される。言うまでもなくライドシンバルもベースのピチカートもアタックが非常に強い)。

 しかし、その秘密は、前述の曲の出だしの方法に現れていたのだ。彼らが意識しているのはあくまで裏拍つまり二拍四拍なのだった。四拍目のバウンズが一拍目の飛び込み位 置を決定しているのだ。ここのバウンズ感さえシンクロすれば、一拍目の位置がどれほど微妙にプッシュしても同時に飛び込める。この、プッシュが強くなればなるほど、ウネりの周期は短くなって、聴いている身になれば腰から上をぐるんぐるんと揺さぶられる感じになる・・・・。あたかも空気がそのように動いてこちらの身体を揺らせるかのように。  これをどのように表現したら良いものか・・・。

 例えば、棒の先に長めの革ひもがつながっているムチを振り下ろして何かを打つとしよう。ムチを持つ腕を振り下ろす運動が革ひもを波立たせて革ひもの先端が対象をヒットするのに少しの時間差が出る。いわゆる「ピシッ パーンッ  ピシッ パーンッ」となる。この繰り返しムリ打ちの周期を早くするとどうなるか。革ひもの先端が対象をヒットするかしないかの間に次のヒットの為にすぐに腕を振り下ろさなければならない。これが、ウネりの周期が短くなるという雰囲気である。  

 これは、紛れもなく横ノリと呼べるものであり、明らかなグルーヴだ。ヒップホップの連中がこの演奏を聴いたらきっとこう言うだろう。 「ドラムとベースとDJとラッパーとダンサーがやっていることを、たったの二人でやってしまっている!」  

 アイリッシュ・ダンスチューンはやはり恐るべきダンスミュージックだったのだ!    

 時折、聞き慣れたチューンが出て来る。でも、メロディーの印象がぜんぜん違ったものに聴こえる。彼らの演奏では馴染みのあるメロディの流れが時には分断され、時には次のフレーズと同化してしまう。それほどまでに、「ビート」が最優先されているのだ。  でも、それは、あくまで私たちの感覚の下にあるメロディの流れである。この流れはいとも簡単に破壊されるが、彼らの感じる心地よいメロディはフレーズの流れ方などではないのだ。彼らには自分たちの「ビート」感に完全支配されるメロディの流れが心地良いのに決まってる。  

 だから、彼らは、恐らく「ビート」などという概念自体も意識していないと思う。その躍動こそが、クレアの、コークの、その土地の生活に根ざす躍動感なのだろうと思う。足踏みや身体の動かせ方がまるで違う二人が、彼らが互いに心地よいと思う音を出している。本人達はそれだけのことをしているだけねのだ。しかし、それが、上記のようなメカニズムに沿ったポイントを巧みに押さえ、希に見る音楽を作り出している。しかし、この分析は、あくまで、異邦人である私の個人的なとらえ方である。

 何せ、パットさんというのは、何年か前に、fieldでワークショップをした時、 「パットさんは、自分の弾く楽器の音に合わせて足踏みをしていますか? あるいは、自分の足踏みに合わせて楽器を弾いているのですか?」 との、私の質問に、しばらく考えてから、 「同時だ」 と言ってのけた、まさにその人である。これが、どれ程の境地であるか!  

 そして、このライブで非常に面白いと思ったのは、観客の反応がキレイに賛否両論だった事だ。とあるベテラン氏はマニアックだが下手だと言い、とある常連氏はMCも何も無くて退屈だと言う。  反して、大阪から来てくれたある人は終電の都合で途中退出を余儀なくされ、ああ最後まで聴きたい!こんな演奏滅多に聴けない!と嘆き、とあるアイルランド人はこれはアイルランドの田舎で聴く音楽のそのままだ!と大感激する。  

 ここ、京阪神のアイルランド音楽愛好者たちの価値観がはっきり二種類に分かれているかのようだ。そう言えば、前に、ドーナルラニーがセッションにやって来た時、ドーナルの演奏に接して大感激する人と、ドーナルって案外上手くないねとつぶやく若者がいたことを思い出した。  

 私? このもの凄い揺さぶりを体験した後では、fieldのセッションなど縦ノリのパンクにしか思えない。言い切れます。

<洲崎一彦:Irish pub field のおやじ・最近自覚しました。アイリッシュパブの経営者としてはワタシ失格です。自らセッションに参加して営業妨害をしています。○○さんの言うとおりです。>                  

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2006年3月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ アンサンブル練習会、始動 

■ field 洲崎一彦

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 さて、今回は、実質的に2月から始動した、「アンサンブル練習会」の事を書いてみます。  

 これは、何をするのかと言うと、文字通り「アンサンブル」の練習をするわけですが、平たく言えば、「合奏」の練習です。  しかし、この「合奏」というものは、ほとんどの人が多かれ少なかれその人の「感覚」だけでやってきた。厳しい高校のブラスバンドなどでは、ほぼ体育会的訓練で「合奏」を指導された人たちもいるかもしれませんが、その方法論は同じ指導を共有した仲間同士の合奏以外にはあまり役に立たなかったりするでしょう。  

 「はい、では、このメトロノームに合わせて! イチ! ニ! サン! シ!」  

 と、やったところで、次の「イチ!」で、みんな同時に音が出せるかどうかはいつも分からない。  

 では、この 「合わせる」 って、何をどうする事なのか?  

 これを、論理的に説明することは簡単です。でも、その「作業(動作)」をするために、自分の体の中のどういう感覚、どういう反射神経、どういう筋肉を、どういう風に使うのか? 結局、これらの「具体的」な「作業(動作)」は各人の個人的な解釈と感覚に任せるしかない。  

 そして、たまたま、うまくこのコツをつかんだ人は「才能がある」。うまくつかめなかった人は「才能が無い」という烙印を押されてしまうというわけです。  

 似ているものがありますよね。スポーツの技術です。しかし、スポーツの技術は、その技術を身体に覚え込ませる体系的な訓練法がある程度開発されています。  

 しかし、音楽の場合、理論は体系的に整備されていても、実技の訓練法は、クラシック音楽の分野以外ではほとんど何も確立されていません。巷には様々な楽器教室がありますが、それは、それぞれの講師の解釈と個性に任せるしかないのが実状でしょう。  

 そして、実際には、その楽器の操作方法を教えるのに精一杯で、この「合奏」方法にまでは手が回らない、あるいは、教えようが無いので、手を付けない。  

 しかし、何か、方法はあるはずなのです。私はずっとこの事を考えていました。  

 例えば、民族音楽はそのほとんどが民衆が語り継いで来た音楽であり、特別な才能を持った人だけのものではありません。つまり、現在のポピュラー音楽の感覚により近く、基本的な音楽要素を持ち、それでいて民族音楽のシンプルさと明快さを併せ持った音楽を探し出して、これを題材とする。  

 この題材に、何かキイワードとなるような音楽の基本的な要素を持って来る事によって、「合奏」の理解は、現状の閉塞感を一気にうち破ることができるのではないかと考えました。  

 そして、たどり着いたのが、  

 この題材を 「アイリッシュ・ダンス・チューン」に、  

 このキイワードを 「ビート」とする、ということ。  

 このような練習会ですから、多分に実験的要素が強く、試行錯誤を繰り返す事になるでしょうし、何かの袋小路に突き当たってしまって一向に前進しないような事態も発生する事でしょう。  

 従って、このような未完成カリキュラムに沿った「教室」は、「練習会」と称して無料で実施するより他に方法がないでしょう。それも、あらかじめ、この、fieldアイルランド音楽研究会という場所の音楽的環境と状況をある程度認知している人たちに対して。まずは、この方法でしか始められない。  

 というわけで、この「練習会」は、fieldアイ研部員対象という事での開始となったわけです。別 にいたずらに閉鎖的にしたものでもなければ、新たなfieldアイ研部員の獲得を狙ったというようなスケベな意図もありません。  

 この練習会を始めるにあたって、まず、第一番目の関門が 「発想の転換をしてもらう」 ということでした。 「音楽を奏でる」 という発想を、イメージを、とりあえず、一度、変えてもらわなければならないのです。    

 それは、非常に基本的、根本的な聴覚刺激と運動神経の関係にまで立ち戻るためです。普段、楽器を演奏しているクセは一度放棄してもらわなければならない。  

 しかし、この最初の段階が非常に微妙な事なのでした。この、クセの「放棄」は、練習の為の準備であり、クセを「否定」しているのではありません。このあたりの事を正確に伝えなければ、自分の音楽が否定されたのだという印象を受けて不快感を覚える人も出てくるでしょうし、逆に、マジメな人は楽器演奏が出来なくなるという事態になることもあり得ます。  

 その為には、キイワードとなる「ビート」の概念を厳密に「定義」しなければなりませんでした。正確には、日本語での「ビート」は音楽専門用語ではありません。音楽俗語と言ってもいいような語なのです。だから、汎用定義など初めからどこにもないわけで、

 まずは  「この練習会だけで決める定義です」  と、注釈を入れてから、バッサリ定義しました。  

 曰く

「メロディを決定する時間経過を表しているのがリズム。ビートを決定する時間経過を表しているのが拍」  

 この定義自体が正しいのがどうかの詮索はどうか今はご容赦ください。この定義をバーンと明示した時、ほとんどの人が 「その定義に於けるメロディとリズムは意識したことがあるけど、ビートと拍は何の事か分からない」 という反応を見せました。  つまり、従来の音楽に対するイメージには無かった「ビートと拍」の概念を理解してもらう事により、自動的に「発想の転換」が可能になるという事です。  

 というわけで、最初の何回かは、毎回、初参加の人がいたので、このあたりの説明は非常に慎重に何度も繰り返してやらざるを得なかったわけです。また、このいわゆるガイダンスに一度出席してくれて、その後、来なくなった人も何人かいました。でも、それはそれで良いのです。  

 ここで、要求する「発想の転換」が、その人が今やっている音楽活動の邪魔をすることは多いにあり得るわけですから、ガイダンスを聞いて、自らその判断を下したのであれば、それは、非常に良く話を理解してくれた人なのかもしれないのです。  

 そして、4回目あたりの練習会で、ようやく「実技」にたどり着くことができました。が、「実技」に入ってみたらみたで、これがまた、色々な難関が待っていました。  

 今度は「理屈」じゃない。実際の個々人の「聴感覚」「運動神経」に直接うったえて行かなければならないわけで、その上、色々な楽器の人達に対して、同時に同じ概念の練習をしてもらわなければならない。何故かと言うと、これは「合奏」の練習会だからです。  

 ここで、よくある反応が 「楽器を奏でるイメージは、個々の楽器によって違うでしょう」  というものです。  

 でも、これを 「同じ」  にしなければ、話は前に進まない。

 また、 「同じ」  でなければ、論理的に「合奏」は成立しない。  

 というわけで、次号のクランコラが出る頃には、この実技練習もまた色々な試行錯誤を経ていると思うので、続きは次号、ということにします。    

<洲崎一彦:Irish pub field のおやじ・本当は自分の練習もせにゃならん。んなことばかりやってるので自分はどんどん置いてけぼり。>                  

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2006年2月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ iPod 革命のしわよせ(しあわせ?) 

■ field 洲崎一彦

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 さて、前回は年頭から、ちょっとややこしい事を書いてしまいまして。おまけに、前回のクランコラが配信された直後というタイミングで、わがアイ研部員を対象に「ビート」に主眼を置いたアンサンブル練習会なるものを始めたのですが、これのドタバタ状況は、また後日報告することにします。  

 今回は、ちょっと私的な話ですが、私は最近になって猛烈に焦っている事があるのだ。というのは、気が付くと、けっこう回りの人々がパソコンでCDを管理しているではないか。つまり、持っているCDを全部パソコンに取り込んで、そこからiPod等に転送して持ち歩く、なんて事が普通 になって来ている!  

 確かに、現在、私のCD管理はメチャクチャである。自分のもの、スタッフのもの、誰かのもの・・・が、 2Fパブと3Fスタジオに入り乱れている。店のCD棚にはヘタすると、2枚同じものがあったり、ジャケだけあって中身がどっか行ってたり、あったはずのものが無かったり、無かったはずのものがあったりする。だから、個人的に人にお借りしたものは何があっても絶対に店のCD棚には入れない。入れてはいけない。  

 先日も、アイ研ぶちょー氏がやって来て

「え〜!まだ、iTuneも使ってないの〜?」 とか言って、思いっきりバカにしていきおった。 くそお!

 なので、ここで、言い訳をするぞ。

「fieldのPCは全部Macやろ? ほな、iTune使うたらええだけやんか〜」  と、皆さん軽くおっしゃるが・・・・。  

 確かに、fieldにあるPCは9台全部がMacである。しかーし、その内、8台はOS9で動いている。つまり、一時代古いシステムで動いている。数はあれど、ほとんどが古い機械なのですね。OS9の古いiTuneは、もひとつ魅力に欠ける。

「そんな古いもの何台も持ってたってしようがないから、売り飛ばして新しいMac買おうよ!」  

 それが、そう簡単に行かないのです。この9台のMacはほぼ毎日稼働してるし、メインのMacには、OS9でなければならない理由があるのです。それは、どうしても必要なソフトが新しいOSX用にするとバカみたいに高価であるという事です。そんなメインPCにLANでつながっているMacはやはり同じOS9の方が使い勝手が良いのですね。  

 以上は、これまで、自分で納得していた理由です。こういう風に「しようがない」と半ば無理矢理、自分を納得させておりました。  

 そこに、ぶちょー氏のひとこと、

「店のBGM専用にMac1台置いたらええやん。CD掛け替えに行く手間も省けるし。そうしてるお店もチラホラあるよ。」  

 え?そーなん?  

 ううう  

 よーく考えてみる。店のBGM用に使って来たCDプレイヤーは普通の民生用だから、毎日使ってると、1年〜2年で絶対に壊れる。これまでは、安いCDプレーヤーを次々に買い替えて来たが、最近は、安いCDプレーヤーはポータブルタイプのものしか売ってない。デッキタイプは既に一部の趣味の人達の需要しか無いからか、昔みたいにお買い得ものが売ってない。だから、今度、壊れたらどうしようか〜と案じていたのだ。  

 PCが音楽プレイヤーになるのなら、例えば、今、メインに使っているMacは、この3年ほぼ毎日動いている。それでもビクともしないではないか!CDプレイヤー2台分の予算でMac mini が買える!じゃないか。  おまけに、CDが管理できて、CDを掛け替える手間が省けるということになれば、良い事づくしじゃあーりませんか!  

 では、晴れて、店のBGM用にMac mini1台ご購入!ということになるのかと言えば、事はそんな簡単な話ではなかったー。  

 私は、個人的には、CDよりむしろMDの管理に困っていたのだ。音楽やってると、練習を録音したりするのにMDは必需品とも言える。カセットテープ時代に比べて、録音したものの頭出しが早いし整理がつきやすい。とは言え、やはり、整理なんてほとんどしないから、毎回、新しいMDメディアを使ってしまう。そんなこんなで、何が入っているのかもう分からなくなったMDが自宅に山のようになっている。  恐らく、残しておきたいような音源は1割ほどだろう。あとは、たぶんゴミのようなものである。しかし、こうなってしまうと、それらをいちいち試聴して整理して行く事など、気持ち的にもう無理だ。  

 だから、私としては、iPodにMD並の音質で生録できる機能が早く付かないか!と切望しているのだが、当のiPod様はそんな所をすっ飛ばして、ビデオを見られる端末なんていう方向に行ってるらしいじゃないですか!  

 実は、今、音楽やってる人達は、皆、少なからず困っていますよ。

 去年だったか、アイ研の若いもんが、

「バンドの練習って、具体的にどうやったらいいんでしょうか〜? メンバーがそれぞれの好きな事を言ってまとまらないか、誰も何も言わないので何をどうして行ったらわからないか、って感じになるんですよね〜」

「練習を録音して聴いたら一発解決やん?」

「やっぱり、録音かあ〜。でも、誰々はMD持ってないし、誰々はカセットプレイヤー持ってないし、誰々はICレコーダーしか持ってないし・・・、どうしても、誰かが何か買わなきゃならなくなるんですよね〜」  

 そんなことになってるのだ!  

 MDの普及すら、既に完全に右下がりで、録音できるポータブルMDが昔のカセットの時のように価格が下がっていかない!  おまけに、ポータブルプレイヤーはiPod式が主流になり、バンドの練習録音だけのために各人が3万円前後の出費となると、学生さん達にはツラかろう。  

 と言って、カセットテープすら再生できないとなると、もう、お手上げなのだ。まさに、主流メディアの切り替わり境目時代。ちょっと前までは、少なくともカセットテープで何でもやりとりできたのに・・・。  

 というか、アップルがiPodなんてものを普及させたからこんな事になるんや!ポータブルプレイヤーはソニー主導で任せておけば良かったものを・・・・!  

 こんな所にも、若者達の音楽環境のほころびが見えますね。昔は全部良かったなんて言わないけれど(もっと昔は手軽に生録できるカセットすら無かったから)、ジッサイ、困ったモンなのである。  

 というわけで、私の長年愛用してきた、録音MDウオークマンが年末に壊れた。こりゃあ不便だというので、新しい録音MDウオークマンを購入したわけだが、確かに、店頭においてあるそのテの機種の種類が、ちょっと前に比べて目に見えて減ってる!  

 それに、何やら、画期的なモノが出ていた。ソニーがMDの新企画「Hi-MD」というのを出していて、こいつはMDに録音したものをPCに取り込めるというではないか!おまけに、旧MD規格のMDも録再可能というのだから、これぞ、私の求めていた製品そのもの。  

 しかーし。これには、裏があって、このHi-MDの機能はソニー社製のiTuneもどきソフト専用なのだった。このソフトは、今や、ソニーの天敵とも言えるアップルのMacには当然対応していない、Windous専用と来た。    

 そして、私はMac以外のPCを持っていないどころか、触った事すらない。一度も無い!  

 ついに、私は、禁断のWindousの扉を開かねばならないのか!?  

 「iTune にはWindous版もあるのよん」  という、悪魔のささやきも聞こえる・・・・・。  

 ああ!

<洲崎一彦:Irish pub field のおやじ・今年に入って、アイ研新入部員がもう約7名!まだまだ、アイリッシュ愛好者って隠れてますねー。さあ!発掘発掘!>                 

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 2006年 1月号

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■field どたばたセッションの現場から

■ アイリッシュは恐るべき音楽である                         

■field 洲崎一彦

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 さて、『クランコラ』恒例の年頭テーマ、「昨年のベスト音楽体験」です。  ああ、またこの季節がやって来たのだなー、と言う感じだ。この何年か、『ク ランコラ』のこのコーナーで確かに前年の自分の音楽的刺激を振り返るのが習 慣のようになってしまっている。結果 、知らぬ間に、この作業が自分の音楽生 活の新年の指針に少なからず影響を与えていうような気がするので、思いつき で書いてしまうのがなんとなく怖い。今年はそんな気分だ。  確か、昨年のこのコーナーには、一昨年、2004年の自分のアイリッシュ・ ミュージックへのスタンスの変化の兆しとドーナル・ラニーとのセッションに よって得られた、そのことへの確信を書いた。

 そうなのだ、そんな事を書いたからだ。昨年、2005年の私の音楽生活は強力 な一方向のベクトルに向かって突き進んでしまった! 上記の「スタンスの変 化」は「ビート」というキイワードを得てさらに先鋭化した。アイリッシュ・ ミュージックに向けられたはずの照準は、いつしか、アイリッシュ・ミュー ジックを補助線にして、かつて自分が通 り過ぎてきたジャズやロックの再認識 にも向かった。  

 この場所で、ジャズやロックの事を書いても、お呼びでないかもしれない。 しかし、ジャズやロックを目指す人たちにもアイリッシュ・ミュージックへの 接近は音楽的に極めて有効である事が、私の中で確信になった。これが、私の 「昨年のベスト音楽体験」であるとしても良いかも知れない。  

2005年の結論 ・アイリッシュミュージックは恐るべき音楽である・  

 この事には、少々説明がいる。やはり、アイリッシュ・ミュージックは民族 音楽であり、民族音楽特有の原始的な側面が色濃く残っているはずなのだが、 昨今のように多彩 にアレンジされたアイリッシュ・ミュージックが一般化され た中で、これをどこに見出すのか。あるいは、アイリッシュ・ミュージックは 単なる素材であり、今やそれは完全にポップスと化してしまったと考えるべき なのか。  

 一般的に、ある文化の原始性とは「整理されていない」傾向、いわゆる、そ こにおける「無秩序」であり「混沌」である。「整理」とは、これまさに「ア レンジ」である。  原始の音楽を「整理」するということは「アレンジ」するという事だ。ここ で、重要なのは、これは「整理」であって「改造」ではないという事。つまり、 元あったモノから何も加えず何も捨てない、ただ、「整える」だけ。整理する 前と後ではそのモノの構成要素はまったく同じだということなのだ。  

 具体例を示そう。アイリッシュ・ミュージックにおける巧妙なアレンジ(整 理済み)を施された音楽と言えば、誰もが思い浮かべるルナサ。あるいは、 クールフィンなどの既にアイリッシュを逸脱したのではないかとも思わせる ドーナル・ラニーの一連の仕事を思い浮かべてもいい。  方や、フランキー・ゲイヴィンやケヴィン・バークのソロ・フィドル。これ ら両者を聴き比べてみよう。実はとんでもない共通点があるのだよん。

「フィドルが入っている」  ちゃいますて!(吉本流突っ込み)  

答え、「躍動感が同じ」(訳:ノリが同じ)  

 ルナサと言わずクールフィンと言わず、現在のポピュラーミュージック・バ ンドの一般的な楽器編成は、いわゆる、ドラム、ベース、ピアノ、ギターに主 旋律を受け持つボーカルやサクソフォンやトランペット等を加えた5種類の楽 器か、またはこの亜流で構成される。  

 そして、この5種類の楽器のそれぞれの特性に沿って、音楽は、その色々な 要素を分担して受け持ちつつ合奏されるわけだ。誰もが思い浮かべるように、 ドラムはリズムを受け持ち、ベースは低音部を受け持つ、と言う風に。  ルナサの演奏とフランキー・ゲイヴィンのソロフィドルが同じ躍動感だとい う事はどういうことか。

 これは、ルナサが音楽の各要素をそれぞれ複数の楽器 が分担して担っている作業を、フランキー・ゲイヴィンは1本のフィドルで全 部やっているという事を意味するのだ。  

 えー? フィドルって単音楽器でしょ、出せても2音が精一杯の楽器でアン サンブルの全てをやってるって?! 何をいい加減な事を言ってるのか! と、 お怒りの方もいらっしゃるでしょうが・・・やってるんですから仕方がない。  

 じゃあ、和音はどうやって出すのよ?   

 はい、お答えします。和音って、和音を構成する全ての音が常にまったく同 時に弾かれますか? 例えば、ギターならどんなに早く和音を弾いても、6弦 から1弦までダウンストロークすると最初に弾かれる6弦と最後に弾かれる1 弦が鳴るのに確実に時間差がありますね。もっと嫌らしい例がアルペジオ。ア ルペジオは和音なの? 旋律なの?楽譜を見るとどう見ても旋律。でも、音楽 を聴く時は皆さんアルペジオを和音に感じているはず。  

 人間の耳は、音を記憶します。例えば、ある音の記憶の上に違う音がやって 来たら、脳はこの2音の響き(同時に鳴った場合)をシミュレーションしてし まうのです。つまり、心地よいメロディーとは心地良い複数の音の響きであり、 それが、一定の時間差によって次々にやって来るという妙味なのです。そして、 この時の一定の時間差こそがリズムだとすれば、音楽の三要素と言われる「リ ズム」「メロディー(旋律)」「ハーモニー(和音)」は普通 イメージされて いるよりももっと渾然一体となったものであることが分かるはず。  

 アイリッシュ・フィドルのソロ演奏でしばしば用いられる「ロール」や「 カット」などの装飾音は、リズムの「こぶし」、つまり、その曲の「ビート」 が持つうねりを演出するためのものでもあり、また同時に、主旋律の流れに最 低限の響き(和音)を連想させるためのものでもある。  

 つまり、1本のフィドルが、ドラムでありベースでありギターでありピアノ でありボーカルであることは充分可能なのだ。  アイリッシュ・ミュージック、特にダンスチューンの合奏が何故ああまで執 拗なユニゾン(同旋律複数同時演奏)の応酬なのか? 何故、少し前(ほんの 30年ぐらい昔ですか)までアイリッシュ・ミュージックには「伴奏」という概 念が無かったのか?  

 それぞれの楽器が音楽の全ての要素を表現し得るのだとすれば、必然的にこ うなるのは当たり前。1本の楽器で完結しているのだから分業なんて面倒なこ とをする必要はどこにも無い。えいや!で、みんな一緒に演奏すればしまい じゃ!  

 これはこれは、恐るべき音楽ですね。専門教育を受けた人ほど騙されたよう な気分になるでしょう。  

 そして、もうひとつ。この、ユニゾン大会は確かにそのとおり。「音楽の全 ての要素」などと言うのは本当は真っ赤なウソで、実際にはハーモニー要素が あまりに弱い。それは、この音楽において、この要素が特にそれ以上要求され なかったという証拠なわけで、実際、ダンスチューンはダンスの為の音楽なの だから当然も当然。アイリッシュ・ミュージックは正真正銘、「ビート」ミ ュージック以外の何者でもない。  

 さて、ポピュラーミュージックのバンド編成というものは、そんなに歴史の 古いものではない。上に挙げた「ドラム」「ベース」「ピアノ」「ギター」は、 ジャズで言う所の「4リズム」というバンドの基本形だ。  

 色々な楽器を持ち寄って好き勝手に演奏されていた古きジャズは、ニューオ リンズの黒人ブラスバンドから発生してビッグバンド・オーケストラの方向へ 行くが、さらに時を下ると、コンボと呼ばれる、小編成楽団の可能性を追求す る方向の流れの中で、「モダンジャズ」が花開く。ここ、5〜60年ぐらいの話 である。  

 コンボの発想をさらに洗練させて、もっと必要最小限への試みの上に極限の 緊張感を求めた「トリオ」や「デュオ」へのトライは「モダン・ジャズ」を、 より前衛的実験音楽へと駆り立て、即興演奏の可能性を革命的に押し広げた「ハ ード・バップ」や「モード理論」、さらに無秩序の「フリー・ジャズ」へと発 散する。  

 そして、「4リズム」の発想から、やがて、お馴染みのロック・バンド形態 が派生して、従来はすべてオーケストラで伴奏されていた流行歌までもが、い わゆるこの「4リズム」を基礎とするバンド形態での伴奏に置き代わっていっ た果てに、現在のポップスがあるのだと考えていい。  

 ここで、モダンジャズ・コンボが「トリオ」や「デュオ」に突き詰められて 行った過程に注目してみたいのだ。  

 この流れでは、だんだん楽器編成が少なくなって来る。普通に考えると、ひ とつの音楽を応用発展させる手段としては、その楽器編成が増えて行っても良 さそうなものだ。それが、発展させれば楽器が減って行くとはどういう事だ。  それまでは、ジャズ独自の即興性が主に主旋律に求められたのに対して、同 時演奏中の楽器同士のイーブンな即時応答性により主旋律のみならず音楽のあ らゆる要素での即興(インタープレイ)が模索されたのが、その理由だ。

 なるべく、必要最小限の楽器数から始めないと、このような大胆なトライは不可能 である。 また、これは、ひとつの楽器が受け持つ表現分担量を増やすということに他 ならない。この試みのためには、ひとつの楽器の演奏技術はとことん高められ なければならない。  

 それでは、こうして、演奏技術が高められた各楽器を、ずらっと「4リズ ム」プラス、アルファ編成に戻してみましょうか?と考える悪戯っぽい人間が 出て来てもおかしくない。  

 そうすると、もう、それは、従来の4ビート・スイングの枠には納まる事な ど到底できない。気が付けば、ロックやラテンのイディオムをふんだんに取り 入れ、なおかつ、4ビート・スイングのビート感をも保持した「16ビート・ フュージョン」が出現するのは当然の帰着だったと言える(実際にはマイル ス・デイビスのバンドがクロスオーヴァー/フュージョンの出発点だと言われ ているが)。

1.ジャズがこのような、楽器編成を縮小させる形で先鋭化発展を遂げた理由 は何か?

2.ジャズの代名詞のように語られるアドリブという奏法を支えていた規範は いったい何にあったのか(アドリブという即興演奏に何らかの規範が存在しな かったら、それは限りなく騒音に近づく= 前衛フリージャズはこの規範をも否 定しようとした)?

3.クラシックの前衛音楽では、遂にこのアドリブという概念が実験音楽以上 に発展しなかったのは何故か?  

 これらに、共通の答え。それが「ビート」である。  

 ここでの「ビート」の定義は以下のとおり。  「ビート」は音楽において、繰り返される拍動の質を決定する一定の規則性 である。ジャズではこれは一般に「スイング」や「4ビート」と称されるもの であり、小編成ジャズ・コンボはこの「ビート」を拠り所に、それまでのアド リブという主旋律における即興演奏の概念を越えて、演奏者相互が瞬時に反応 し合う即興性であるインタープレイの試みを可能とした。  

 また、「ビート」は、「メロディ」の流れを決定する各音の時間変化を意味 する所の「リズム」とは明確に峻別して意識されなばならない。例えば、「メ ロディ」を「歌う」と称される行為には「ビート」の概念は一切関わらない。 従って、「ビート」に規範を置くジャズに於けるアドリブ演奏は厳密な意味で の「メロディ」とは別 質のものであり、「メロディ」を「歌う」クラシックの 前衛行為から出発する即興演奏は、本質的に、ジャズのアドリブ演奏と同質の ものにはなり得ない。  

 従来のクラシック音楽を代表とする普通に連想される音楽のイメージを「メ ロディ音楽」と称すれば、こちらは、さしずめ「ビート音楽」と称してカテゴ ライズしてしまっても良いと思う。  ジャズがアフリカ音楽の派生であるという一般的理解から、ジャズが「ビー ト音楽」だと言うのは皆納得できるイメージだろう。  しかし、アイリッシュ・ミュージックもまた、ダンスを伴う強力な「ビート 音楽」であることを忘れてはならない。  

 「ビート」を規範として最低限の抑制環境を作り出すことで可能となった ジャズにおけるアドリブ演奏。これと全く同じメカニズムで、フランキー・ゲ イヴィンは「ビート」を規範として1本のフィドルだけでバンドアンサンブル と同様の躍動感を表現したのだ。(フランキー氏自身が意識するしないに関わ らず)。    

 つまりはですね、  ロックやジャズを目指すバンド少年たちよ! どないしたらワシらのバンド は上手になるんや〜と悩んでいるボンクラたちよ! ドラムの兄ちゃんもベー スのお姉ちゃんも! みんな、黙ってアイリッシュを聴くのだ!  

 1本のフィドル演奏の中に、君らの吸収すべき全て、あるいは、それ以上の ものがぎっしり詰まっているのだから!  最後に、現在の世界中の音楽という音楽は、皆ことごとく、現在進行形で、 雪崩をうって「ビート音楽」化しているのではないか、という私見を付け加え ておく。

 

  <すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・本年より「ビート」をテー マにアンサンブル練習会を始めるよん!>                 

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