2005年12月号

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■ field どたばたセッションの現場から

■ソーラスの連中はジャズメンだった!

■field 洲崎一彦

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 ソーラス観た! 面白かった!  

 滋賀県栗東市でおこなわれた今回の来日最終公演だった。ソーラスのCDは 2ndや3rdはよく聴いたが、他はほとんど聴いたことがないし、最新のものも聴 いていない。メンバーも最初の頃とはだいぶ違うようだ。ただ、ソーラス・サ ウンドは確かにきっちり受け止めたよん。  

 同じホールで、昨年はアルタンを観たが、ホールの特性か、PAマンのクセか、 少し高域が強調された音色傾向が同じだった。こういうアコースティック・バ ンド形式で高域が強調されると、ギターのシャリシャリ感が強くなる。昨年の アルタンではブズーキとギターの音を分離するため、今回のソーラスではガッ トギターとギターの音を分離させるためか?と想像するとPAマンの気持ちも分 からないわけではない。  

 つまり、この音色特性できわだって来るのは、そのままの高い音色ではなく ていわゆるミドルハイ= 中高音域という所になる。アルタンでは、そこはキー ラン・クランのブズーキの低音弦であったし、ソーラスではシェイマス・イー ガンのガットギター(たぶん。もしかしたら中低域特性の強いスチール弦ギ ターかもしれない)のロウポジションフレットの音色だった。  

 最近のこのコーナーで、私はもうとにかくやっためたら「ビート」や「ノ リ」の話ばかりしているわけだが、普段そんな事ばかり言い合っているfield アイ研のメンバー達と一緒に観ていたというのも面白かった。  つまり、日常の練習スタジオからその足でポンっとホールにやって来たとい うか・・・いやいや、事はもっとリアルだ。この公演が行われている滋賀県栗 東市さきらホールのクリスマス・イベントとして、ソーラスの公演が終わった 1時間半後に、私たちfieldアイルランド音楽研究会がロビーの特設ステージ でコンサートをやることになっていた。それで、つい、さっきまで、ちょっと その下の方で自分たちが楽器を持ってPAリハーサルをしていたわけだから、そ のまま、控え室にパッと楽器を置いて、このホールの客席に駆け上がって来た のだった。  

 話がそれたが、そう。シェイマスのギターの音色に最初に触れたのには理由 があるのだ。彼は彼の持っている「ビート」でバンド全体の「ビート」を支配 したい時にこのギターを使った・・・のだと、思う。何故かというと、彼がギ ターを弾いた時は必ずバンド全体のビート、言い方を代えると「バンドの揺 れ」の質が明らかに変わったからだ。これは凄い事なのだ。何が凄いって、他 のメンバーが凄いのだ。これは、彼らが全く違うビートを弾き分ける事が瞬時 にできるプレイヤーであることを証明しているからなのだ。「演奏力」という 部分では昔のフュージョンの草分けである〔リターン・トゥ・フォーエバー〕 や〔ウェザー・リポート〕と同様のレベルであるということになってしまう。

 これは、まさに、ソーラスの面々が皆バリバリのニューヨーカーであるという 事と無関係ではないだろう。  つまり、ソーラスはアイリッシュミュージックの皮を被った第一線級のニ ューヨーク・ミュージック・バンドだったのである。その昔、ブラジルのサン バを題材に、ニューヨーク・ミュージックを創造したチック・コリアの〔リ ターン・トゥ・フォーエバー〕のように。  

 ここで言う所のニューヨーック・ミュージックの定義は、16ビートや4ビー トを基調に、アクセントやプッシュを自由自在に操って様々なビートのイン タープレイを聴かせる演奏方針を持つ音楽の事とする。広義には4ビート・ス イングを基調にしたモダン・ジャズを含めてもいい。  

 これに気づいてからというもの、メンバー各々のプレイに注目せざるを得な くなった。  ギターのエイモン・マクエルホルムは明らかに軽めの16ビートでノッている。 昔のソーラスのギタリストだったジョン・ドイルも(生で聴いたことはない が)とてもクセのある16ビートでぐいぐいと押し切っていた事思うと、やはり、 ソーラス・サウンドの基本はこの16ビートであることにまず間違いない。  

 そして、この流れるビートを自由自在に乗りこなすウィニフレド・ホランの フィドルには圧倒された。彼女の奏法で最も凄いのは弓の早さである。一般に フィドラーが弓をコントロールするバリエーションは、弦をこする圧力とその 早さである。しかし、アイリッシュ・ビートなどアクセントの極端な音楽には 圧力加減に意識が偏ってしまう傾向があり、早さの重要性が軽視されている。 しかし、弓の早さがあれば、音量を出すことなく音の立ち上がり、つまりア タックを鋭くすることができるのだ。アタックが鋭くなければ、いわゆるプッ シュという奏法に不利である。そして、バイオリン(フィドル)という楽器は 一般 に思われている以上に実はアタックがつけにくい楽器なのだ。プッシュが 重要視される4ビート・モダン・ジャズにバイオリンがあまり使われなかった 理由はこのあたりにあるのではないかと私は個人的に想像している。  

 そんな事を思いつつ彼女のフィドルに私の耳は釘付けになってしまった。 マッハ級の弓で鋭いアタックを付けながら、後の拍で確実なアクセントを放り 込んだと思えば、次にはさらさらと流れるようなノーアクセントの旋律を奏で、 そして、シェイマスがギターを手にしてアイリッシュ・ジグのアクセントを強 調すると、彼女のフィドルは一瞬にして完璧なアイリッシュビートを叩き出す。 これは、本当に凄い。   

 一般に、ニューヨーク・ミュージシャンにアイリッシュ・ジグのような3連 譜の連続を提示すると、頭で跳ねて「シャッフル」になるか、プッシュを利か せてアクセントを抜いて4ビート・スイングに料理してしまうのがまず普通 だ と考えていい。しかし、彼女は「跳ねず」「プッシュし」「アクセントを置い たまま」の完全なジグのビートに一瞬にして切り替えた!! まさに、おしっ こちびりそう・・なのである。  

 おまけに、彼女の身体は基本的に微動だにしない、この種の音楽の奏者には 珍しく、突っ立っているだけ。身体の内部で完全にビートが躍動している証拠 だろう。身体がビートを持ち始めると、それに合わせて楽器を弾く以外の運動 はすべて邪魔になるのが自然の成り行きである。  

 そして、謎めいたミック・マクアウレイのアコーディオン。何とまあアコー ディオンらしくないアコーディオンか!? アコーディオンもまた、ボタン式 は鍵盤式に比べるとまだマシだとは言え、アタックの付けにくい楽器である。 その代わりに、特にボタンアコは独特の音圧感の強いアクセントに有利で特徴 的である・・という私のこれまでの観察がウソであったことが、この人のアコ を聴いて判明した。信じられないくらいスムーズなアタックで見事なプッシュ を利かせ、アクセントは逆にあっさりしたもの。正直言ってアイリッシュのア コーディオンとすれば何か物足りないと思ったけれど、この神業に近いプッ シュが無ければこのバンド全体に脈打つ16ビートには乗り切れないだろう。  

 つまり、この3人は16ビートという最低限の共通拍動の上に立って、それぞ れの個性で表現力を競い合うミュージシャンである。この演奏姿勢は、そのま ま全くもってニューヨーックのジャズマンそのものである。  対して、少々悪戯っぽい見方をすれば、シェイマスひとりが、アイリッシ ュ・ビートという一種類の武器しか持っていない大変不器用でお気の毒な人の ようにも見えて来る。しかし、もし、シェイマスがいなければ、このバンドは ニューヨークにおいては全く何の変哲もない普通 のジャズ・バンドになってし まうのかもしれない。  

 ジーン・バトラーが何曲か踊った。このジャズメン達の演奏でアイリッシ ュ・タップを踊ったと考えると、これは、これでまた、奇異なことではある。 確かに、ゆっくりしたバラード調の曲でタップを踏むプログラムは意表をつい ていてとてもインパクトがあった。けれど、さすがのジーンが微妙にタップポ イントを外す。ゆっくりと言えどもこのジャズメン達の心臓は16ビートで脈 打っているのだ。これは、恐らく、ジーンの体内には存在しない拍動だったか もしれない。  

 チック・コリアの16ビート・サンバ大発明曲「スペイン」では、やはり、リ オデジャネイロのお姉ちゃんはサンバ・ダンスを踊る事ができないかもしれな いのかな? などと、考えてしまった興味深い光景でした。  

 蛇足ですが、アイ研の海さんと村上さん。ソーラスを観ながら、まったく同 じように身体を揺らせておるのですね。これが見事に16ビートになっていて ・・・・、何とまあ、ソーラスは非常にタイミングのいい教材になってくれた ものです。

<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・寒い寒い寒い! でも、今 更ながらにアイリッシュミュージックは夏より冬やね>                 

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2005年11月号

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■ field どたばたセッションの現場から

■fieldアイ研、初心者練習会の裏テーマ                          

■field 洲崎一彦

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 前々回のアイリッシュ・ダンス・チューンのビートの話の箇所で、私は音符 を言葉で説明しようとして、皆さんに少なからず混乱と誤解を生んでしまった ようだった。あらためて、音楽を言葉で語ることの困難さを痛感する次第なの だ。  

 が、前回のリールとジグの話に関する補足資料としてぴったりな音源を見つ けたので、ここに紹介しておく。それはフェアポート・コンヴェンションのア ルバム《LIEGE & LIFE》の6トラック目に収録されているアイリッシュ・チ ューンの演奏だ。  

 1曲目のジグ〈The Lark in the Morning〉は明らかなシャッフル。2曲目 のリール〈Rakish Paddy〉は典型的な8ビートで演奏されている。ドラムスが 入る以上、このようにしかやりようが無いという気もしないではないが、果 た してこのシャッフルがジグなのか? この8ビートがリールなのか? という 議論は賛否両論に分かれる所だと思う。  

 そしてまた、今回もそっち寄りの話になってしまうが、どうか、お許しあれ。  

 さて、この夏より、fieldアイルランド音楽研究会では、初心者の皆さんを 対象に毎週「練習会」なるものを行っている。曜日と時間を決めているので、 希望する人全員が参加できないもどかしさはあるが、こういう窓口を開いてお くだけでもいいかと思って始めたにしてはけっこう続いている。私と、ホイッ スルの永野海人がインストラクター役を務めてはいるが、カリキュラムが決 まっているわけではないので、参加者の顔ぶれを見て内容をコロコロ変えてい る。時には、ただ、皆で一緒に遊んでいる場合も無きにしもあらず。

 そんな、ある日、「8ビートと16ビートを聴き分けてみよう〜! ドン! ドン!ドン!」ということになった。アイリッシュとはあまり関係ないのだが、 それほど色々な音楽を聴き込んで来た様子でもないこの日の若い参加者たちが、 どんな反応をするかが興味深かった。  

 その昔、私が音楽をやり始めた頃の難関はまず「8ビート」だった。これに はそれなりの時代背景があったようだ。つまり、50年代に大ブームだったジャ ズがだんだん下火になってジャズマン達の多くが歌謡曲のレコーディング現場 に流れて行ったらしいのだが、60年台後半になって「ロック」なるものが歌謡 曲の世界に浸透して来た。そして、この「ロック」特有のノリを古いジャズマ ン達はどうしても理解できなかったというのだ。この「ロック」特有のノリと いうのが「8ビート」というものなのだ。  

 これは、当時、ロックギタリストの成毛シゲル氏が提唱していた説だ。その 頃、グレコ製のエレキギターを買うと、「成毛シゲルのロックギターレッス ン」というカセットテープがもれなく付いて来た、あの成毛シゲル氏である。  

 私はその頃はまだ中学生か高校に上がったばかりで、高価なグレコ製のギ ターが買えなかったから、ギャバンというメーカーのギブソンのロゴをもじっ たバッタなエレキギターを手に入れて、何かの雑誌で特集していた「成毛シゲ ルのロックギター講座」を広げ、NHKのTV『ヤングミュージックショウ』で放 送された「クリーム解散コンサート」を録音したテープを傍らに、必死でこの 「8ビート」なるものを練習したのだった。  

 成毛シゲル氏曰く  

 「8ビートを感じているギタリストのピックを持つ右手は、メロディーやフ レーズに関係無く常に8分音符で一定に上下に動いている」  

 というのだが、今のように、DVDはおろかビデオも無い。おまけに、そんな ロック系のミュージシャンがTVで放映される事など滅多にない時代だから確か めようがない。もう放映されてしまった『ヤングミュージックショウ』の「エ リック・クラプトン」は暗闇のテープの中に音として残っているだけだ。それ でも、クラプトンの右手はきっとこういう風に動いているのだろうと必死で想 像した。    

 そんなこんなで月日が流れ、私が高校を出る頃になると、今度は「16ビー ト」なるものが出現し始めた。ようやく「8ビート」の感じが少し分かって来 たというのに・・・「8ビート」はもう古い!なんて文字が音楽雑誌に踊って いる。ちきしょー! 今度は何やねん!!?  

 私の前に初めて現れた「16ビート」は〔デオダート〕というラテン系ミ ュージシャンの音楽だったが、今度は成毛シゲルのように懇切丁寧に説明して くれるものは何もない。時折、音楽雑誌で「16ビート」なる語が見て取れる ものは、元はっぴいえんどの細野晴臣氏が語る〔シュープリームス〕であった り、後藤次利氏が語る「チョッパーベース奏法」であったりと非常に断片的な 情報でしか無かった。  

 サタデイナイト・フィーバーのディスコ・ブームも私の頭を混乱させた。映 画の主演俳優、ジョン・トラポルタが何かのインタビューで  「16ビートでなければ、ディスコ・ステップは踊れないぜ!」 などと発言している!  

 じゃあ、このサタデイナイト・フィーバーのサントラ盤の〔ビージーズ〕も 16ビートなのか?! 「小さな恋のメロディ」の〔ビージーズ〕が16ビー トなのか!? まったく!とりとめがない。  

 友人達ともよく論争になった。  

「チキチキタカタカ、チキチキタカタカ、が16ビートやろ?」  

「ほな、〔ディープ・パープル〕の〈スモークオンザウオーター〉は16 ビートか?」  

「〔ディープ・パープル〕は8ビートやんか!」  

「ズンズンチャッチャ、ズンズンチャッチャ、が8ビートや!」

「それやったら、〔アースウインドアンドファイア〕は8ビートということ か?」  

「いや、〔アース〕は16ビートやと雑誌に書いてあったぞ」  

 夜を徹した友人達との語らいも、はなはだ、とりとめがない。  

 8ビートではギタリストの右手が8分音符で規則的に上下運動をする。とす れば、16ビートではギタリストの右手は16分音符で規則的に上下するのか?  

 この時代になると、TVで『ソウルトレイン』なる音楽番組をやっていて、と にかく黒人達が派手な衣装で踊りまくる、時々、生バンド(スライ・アンド・ ファミリーストーンが出てたのを記憶しているが・・・)も出る、というのが やっていた。これって、ディスコの踊りやんね?ね?ね?と、TVに向かって思 わず訊ねてみたりもしたが、チラリと移る黒人ギタリストの右手は決してそん なに忙しく動いてはいない! それより、腰が動いておるぞ!  ガーン! 手の運動なんて関係無いのだ! 要は身体の中身の躍動感がすべ てじゃ!  これは、8ビートも16ビートも同じや! そういう躍動を身体の中に持っ ていれば手がそのように動く事もある!という事やないか! ああああ!  

 つまり、演奏者の躍動感が演奏される音に「何らかの」影響を与えるという、 実は非常にデリケートではあるが、一旦、聴き取れてしまうともう後戻りがで きないという質のものであった!  私が何となく「ビート」というものを理解した瞬間でした。  

 昔は情報も限られていたし、日夜こんな感じの格闘をしておったのですが、 最近では、TVひとつ取っても実に様々な音楽が流れているし、今の若い人達は もの心つく前からお家のTVで、それこそ、もう既に8ビートや16ビートの音 楽が普通にガンガン流れておったに違いないわけで、こういう、プリミティブ というか何というか本能的躍動感みたいなものに対しては、きっとワシらおっ さんより敏感に違いないと想像されるわけです。  

 さて、お話はfieldアイ研のある日の練習会に戻る。  「8ビートと16ビートを聴き分けてみよう〜! ドン!ドン!ドン!」 なのである。  field STUDIO に置いてある適当な有名所のCDをピックアップして皆に聴か せてみる。

1. 〔シック〕のアルバム《テイク・イット・オフ》から〈ステージ・フライト〉。

2. 〔デレク・アンド・ザ・ドミノス〕のアルバム《イン・コンサート》から 〈ワイ・ダズ・ラヴゴットゥビー・ソーサッド〉。

3. 〔クルセイダーズ〕のアルバム《ラプソディ・アンド・ブルース》から〈ソ ウル・シャドウ〉。  

 この3曲を間をおかずにかけて、  「さて、何番目と何番目が仲間でしょう?」  初めから、「8ビート」や「16ビート」なんて言葉は一切使わないで、こ の3曲の内、共通点を持った2曲があるが、どれでしょう? というクイズを 出してみた。  答え、1と3  1と3が16ビートで、2が8ビートなのだが、ビート以外にも、2には四 和音が使われていないというコードがかもし出す雰囲気の違いもあるので、あ る程度、この答えは非常に明快なはずなのだが・・・  

 案外、皆、分からないもんなんやね、これが。正解率は結構悪かった。小学 生の頃からウオークマンなんて当たり前という時代の若者達にして、ワシらの 世代と音感あんまり変わってないんとちゃうか?と思ってしまうような結果 な のだ。  

 結局、日本民族はリズムに弱いという俗説が本当なのか、小中学校の音楽教 育に問題があるのか。まあ、どちらにしても、高校生の時はあんなにチンプン カンプンだったワシでも、まして、あんな劣悪な情報環境の中でも時間をかけ れば分かるようになったんやから、うまくやれば、こいつらにはすぐに分かる はず。

 色々と説明をしていたら、ある19歳女子が  「あ、そーかー! カラオケで浜崎あゆみを歌った後で宇多田ヒカルを歌う と、メロディに歌詞をうまく乗せる事ができないんですよ。そんな時はリズム をより細かく取ると歌えるんです! これって関係ありますか?」 と言った!  

 そう、それそれ! まったくそれです。その時の浜崎あゆみは8ビート、宇 多田ヒカルは16ビートだったのです。つまりそれが「ビートが違う」という 現象です。  

 なるほど、カラオケという環境もあったんやね。カラオケはなかなか隠れた 好教材になるかもしれん。  しかし、アイリッシュをやろうとする若者達は往々にして、カラオケは嫌い です、と言うんやなー。この彼女など珍しい存在。  

 では、さてさて、どうやってこのビートという問題を、アイリッシュ・ミ ュージックを練習しながら分かっていただくか?   

 ここで誤解の無いように付け加えると、アイリッシュが8ビートか16ビー トか?などという事は問題ではありません。ビートはこの二種類だけではない し、他にも色々なビートがあるのですが、大事なのはビートに名前をつける事 ではなくて、ビートという感覚を認識し体感することなのです。  

 実際にはなかなか具体的に難しいもんがあるけれど、これが、fieldアイ研 初心者練習会の裏テーマなんでアリマス(こんな所でバラしたら、裏でも何で もないんやけど・・・)。  

 何で? 初心者にこんなことさせるかって? それは、楽器がうまくなった 後では時として頭が固くなってしまうからです。  

 頭が固くなってしまうというのは、この場合具体的にどうなるかというと、 メロディーというものの魔力に支配されてしまうのです。  

 何故なら、楽器を修得するということは、「物理的にその楽器の扱い方を覚 える」ことと、「その楽器の演奏を通して音楽というものを把握する」という 2つの要素から成り立つわけですが、楽器を学び始める時は往々にして皆、「物 理的にその楽器の扱い方を覚える」ことのみに四苦八苦してしまう。ちょっと 気を抜くと、いや、楽器そのものに集中すればするほど「音楽というものを把 握する」という要素がどこかに消し飛んでしまう。  

 普通、「物理的にその楽器の扱い方を覚える」方法は、メロディーを奏でる というアプローチになります。そこで、色々なメロディーを演奏できるように なることが明確な達成感を与えてくれることから、多くの人がメロディーの魔 力に支配されてしまうというわけです。メロディー感に支配されてしまうとな かなかビートの問題が感覚的に捉えにくくなります。  

 だからこそ、初心者にこそ、是非、ビートという感覚をまずは知って欲しい。 そうやって、将来、楽器の扱い方を修得した暁には、わたしらのようなオッサ ンやその辺の諸先輩達を軽く凌駕するようなエキサイティングな演奏を平気な 顔でやってのけてくれるはずです。    

 いや、是非、そうなって欲しいのです!

 <すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・遅まきながら海人君にホ イッスルを習い始めましたが、まじめに教えてくれません…>                 

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2005年10月号

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■ field どたばたセッションの現場から

■100号を迎えて、ワシも考えた                          

■field 洲崎一彦

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 今回で、この『クラン・コラ』が何と通算100号を迎えるという事です。私 などは投稿も途中参加なら編集も途中参加なので、創刊の苦労も知らない若輩 でありまして、ここに、創設の諸先輩方に深く敬意を表したいと思います。  

 私が、『クラン・コラ』に参加させていただいたきっかけは、確かオドンネ ル3兄妹の来日コンサートのレポートを書いた事だったと記憶しているので、 あれは2001年の事でした。ついこの間、と思っていたのに、もうこんなに 月日が流れていたことに愕然とします。  

 そして、私に直接声をかけていただいたのは▽▲とんがりやま▼△さんでし た。月日は流れ、何と!その私が編集という場所から今度は▽▲とんがりやま ▼△さんに原稿の催促をする事態になっていようとは! びっくりしますよね。 ねえ?▽▲とんがりやま▼△さん(笑)!  

 私が投稿を始めた頃は、セッションでのエピソードでも気軽に書いてくださ い、とか言っていただいて、すっかりその気になって本当に気楽に書かせても らっているうちに、全然、気楽じゃなくなって来て、最近はもう、よけいな事 ばかり書いてしまって、日々真綿で自らの首を絞めているかのようなクランコ ラ・ワークになっておるのであります。  

 それでは、何故に私が『クラン・コラ』への投稿を続けているのか?これが、 自分でもよく分かりません。当初は確かにシンプルな動機がありました。アイ リッシュ・ミュージックを盛り上げる事はいづれ自分の仕事(Irish pub)に プラスになるだろう、と。  

 確かに、理屈はそうなのですが、日々の仕事の場面で  「『クラン・コラ』読んでるよー」 などと言って、お客さんが大挙して押し掛けるなんて事は全く無いわけですか ら、そんな大義名分はすぐに忘れてしまいます。  

 日常の仕事の煩事にまぎれて、自分が設定した締め切りに追われながら原稿 を書いている時などは、正直、神妙な気分になる時もあります。マゾか?ワシ は? 神は死んだか? 桜はまだかいな?  

 では、それでも何故書くのか。これは、ひとつの発散なのではないかと思う のです。実は私はアイリッシュ・ミュージックとの関係が割と微妙です。演奏 を生業としているミュージシャンではないし、コンサートを制作するイベン ターでもなければ評論家でもなく学者でもない。と、言って、ひとりのマイ ペースなファンという素朴な位置にいるだけでは許されない程度の利害関係を 持っているからです。アイリッシュ・ミュージックは私の仕事と直結までは行 かなくても、日常的にジワジワと関係しています。  

 こういう位置にいると、やはり、言いたい事がいっぱい出て来るということ なんですね。誰か具体的な人間を対象にして何かを主張したいと言うんではな くて、誰の目に触れるかもわからない、ちょっと危険な窓口から、とにかく何 かを吐き出したい。そういう衝動が確かにあるんです。  

 時折、つい吐いてしまう極論は、まさに、そういう私が無意識に求めるスリ ル感なのでしょう。元々ギャンブルはやらないタチなので、こういう所で人間 の本能的なギャンブル欲を満たしているのかもしれません。  つまり、『クラン・コラ』・ワークは私の潜在的なマゾヒズムを適度に満足 させながら、スリルとサスペンスを提供し、おまけに、精神的発散も許容して くれる寛容を併せ持つ、もはや、生活必需品なのですね。  

 自己主張という問題は確かに微妙です。こういう原稿を書くのも自己主張で すし、楽器を演奏するのも自己主張です。コンサートやCDの感想を述べるのも 自己主張なら、単なる情報発信も自己主張ですね。それほど、この世界は自己 主張に溢れている。  

 しかし、一方で、暴力や戦争も一種の自己主張です。内容は全く違うけれど、 構造は同じ自己主張に変わりはない。では、この自己主張の内容の「良い、悪 い」の境界線はどこにあるのでしょうか? これは、非常にデリケートで神妙 なテーマですね。法に触れるか触れないかという形式論では合理化することは できません。  

 つまり、このような執筆も、音楽演奏も、時と場合と内容のバランスが狂っ た時には簡単に暴力になってしまう可能性を潜在しているということなんです。  

 この事は、昨今のネット上の言論の自由の暴走が如実にモデルを提示してい ますね。  

 このような意味においても、この『クラン・コラ』の存在の何と良識的な事 か!? だからこそ、私のような未熟な人間には途方もない安全地帯に見える のです。  

 私は、この良識が、100%おおしまゆたか氏の人格に由来しているのだと断 言します。『クラン・コラ』100号の驚異は、この良識が、このネット時代に おいてもなお保持され続けている事にあります。  

 私は、『クラン・コラ』100号を迎え、おおしまゆたか氏の人格と存在に、 改めて深く感謝します。

<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・物理的にムチでしばいて! はナイかもしれんが、汚い言葉で罵って!はアルかもしれん>                 

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2005年9月号

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■ field どたばたセッションの現場から

■field セッションの化けの皮

■ field 洲崎一彦

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 どうも、最近、おかしなウワサを耳にした。正確にはウワサではないな。風 聞と言った方がいいかな。

 曰く

「field のセッションはレベルが高いので気軽に参加しにくい」  

 なんと! まったく! とんでもない!  

 まあ、だいたい、こういう風評は、それを主宰している者の耳にはなかなか 届きにくいものなので、これが、いつの頃の印象なのかは分からない。でも、 6年近く続けている field セッションだが、果たして、それほど、高級な音 を出していた時期がひとときでもあっただろうか? なるほど、凄いゲストが 来た時は凄いセッションがあったかもしれないが、field のセッションの音は いつの頃も実に色々な欠陥だらけだった。  

 おしなべて、field セッションの特徴を一言で言うと、  

「リールとジグばかり」

 という事になる。時々、エアをやったり、歌が入る場合もあるが、ほとんどが ダンスチューンである。それならそれで、ポルカ、ホーンパイプ、スライド、 ストラスペイ、等々もどんどん出て来ればいいと思うのだが、ほとんど、リー ルとジグの一点張り(二点張り)だ。もしかしたら、元はホーンパイプやスト ラスペイだったかもしれないチューンも強引にリールとして演奏している恐れ がある。同じ理屈で、スライドがジグに化けていることだろう。  

 そして、次に、  

「リールは早く、ジグは遅い」  

 特に、リールはしばしば「早過ぎる」。その上、ただでも早いリールが、場 が乗ってくると、どんどん加速する。以前は、加速合戦なるものが行われたこ ともあった。早さについて行けない者から脱落して行き、最後に誰が残るか? というようなゲームだ。ゲームとしては面白かったが、これはもはや音楽では なかった。  

 何故?こんな風になって行ったのか?  元々は、本当に手探りで始めたセッションだ。アイリッシュ音楽の事もあま り知らないまま、いきなりドカン!とセッションを始めた。乱暴な話だ。  

 セッションをやりながら、セッションに来てくれた先輩ミュージシャンの 方々に、  

「セッションのやり方を教えてください」 とたずねて、  

「・・・今、してるじゃないですか」 と、呆れられたこともある。  

 でも本当に、私たちはアイリッシュミュージックをぜんぜん、まるっきり知 らなかった。今だから白状すると、このセッションを始めた頃の私はアイリッ シュのCDをせいぜい5〜6枚ぐらいしか聴いたことなかったのです。いや、ホ ンマのハナシ。  

 そんな、とある日のセッションにやって来たあるミュージシャンの人が、  

「ロックやってたのならアイリッシュのノリはすぐに分かるよ!」  

「リールというのは8ビートと一緒! ジグというのはハチロクのバラード と一緒だと思えばいい!」

と教えてくれた。  

 確かに、出回っている楽譜を見ると、リールは8/8、ジグは6/8で書いてある。 私は、楽譜を頼りに演奏していたわけではないけれど、この、「8ビート」と 「ハチロク」というキイワードにはスコンッとハマってしまったのだった。  

 ロックの「8ビート」の要点は四拍子の2拍目と4拍目に強拍が来るのと、 四分音符1拍を八分音符に二分割したうしろの八分音符の位置(八分音符の裏 拍)を過剰に意識する(アクセント)。これがうまく出ないとロックのノリが 出せないので、昔は随分苦労した。なので、「8ビート」と言われると、まず、 この部分が一番気になってしまう。    

 リールは一聴すると、小節の頭に強拍が来ていない。楽譜的には2拍目と4 拍目に強拍があるように聞こえる。これは、ロックの「8ビート」でも同じだ。 が、「8ビート」と思った瞬間に八分音符の裏拍を意識するあまり、私はこの 2拍4拍の強拍の部分をあたかも八分音符の裏拍のように感じてしまったわけ だ。楽譜的にはこれは大いなる勘違いである。楽譜上の八分音符を四分音符だ と勘違いしたのと同じなのだ。  

 そして、そのまま「8ビート」ロックとしてノッてしまうとどうなるか?  答、早くなる。おまけに、単なる2ビート、いわゆるタテノリになり果 てる。「ドン チャ ン ドン チャン ドン チャン」である。  

 「ハチロク」にも昔は苦労した。当初は早い三拍子か?とも思った。楽譜的 には一小節に八分音符が6個あるわけで、その4つめの音符に強拍が来る。そ してこの強拍がアクセントになって比較的重い感じで、ゆったり感が強い。確 かにロック・バンドのバラードにはこの形式が多かった。  

 だが、ジグの「ハチロク」バラード解釈は、さすがに演奏していてもモッタ リ遅くなってしまう。これはちょっとおかしいぞ、こんなんでダンスなんか踊 れないだろう?とすぐに感じたが、一旦身体の中でこのゆったり感を感じてし まったクセが残ってしまう。それで、何とか軽快なダンス曲にしようと無理を しているウチに4/4拍子の「シャッフル」に感じるようになってしまった。「シ ャッフル」は軽快なブルースによく登場するノリだ。  

 わかりやすく言うと阿波踊りの「チャン カ チャン カ チャン カ  チャン カ」である。つまり、四分音符1拍を三連譜に三分割した頭の音符で 跳ねるのだ。この場所で跳ねたいと思うとテンポはそんなに速くできない。つ まり、バラードからは逃れられたが、「シャッフル」の落とし穴にはまって、 やはり、ジグはある一定のテンポにしか上がらなくなってしまった。  

 以上、が、従来の field セッションサウンドの分析である。  

 私が、自分たちのセッションのサウンドに対して、「これではちょっとおか しいぞ?」と最初に感じたのは昨年半ばのことである。それが、秋口にドーナ ル・ラニー氏とのセッション、続く年末のアルタンとのセッションを経てます ます確信を持った。そして、今年の春を迎える頃にはもはやこれは危機感とな り、5月のアイ研合宿で初めてこれらの疑問の一端を皆に問題提議したのだっ た。  

 その後、徐々にこの疑問に興味を持ってくれるアイ研部員も増えて来て、今 では、事あるごとに、ビートやノリの論議が絶えなくなって来ている。これで は、まるで「研究会」ではないか!?(まあ、名前の通りで実に良い事なので すが・・・)  

 つまり、現在の field セッションの音は、さらにまったく高度どころか、 振り出しに戻って試行錯誤のヨチヨチ歩き状態なのである。レベルが高いなん てとんでもないのだ! 

 「こんなノリはどうよ?」 てな感じで、どんどん新しい解釈の演奏者に来て欲しいと切に願っているのが 正直な所なのだ。  

 私たちは、何が本当のアイリッシュ・ビートか?というような大それた問題 を追求しようとは思っていない。「民族音楽」である以上、そういう取り組み や研究があるべきだし、あって当然だと思っている。しかし、一方で、私たち は伝統の継承者としての使命を覚悟した使徒ではない。音楽が本来持っている 自由な取り組みと楽しみ方を謳歌することができる環境にどっぷりと浸かった 無節操な音楽愛好者である。  

 ただ、シンプルに、演奏していて楽しい。そして、その楽しさが、躍動感と いうものに、何らかの共通のポイントを感じ合って合奏するビートミュージッ クの方法論に由来するメカニズムを、必ずアイリッシュ・ダンスチューンにも 見出せるはずだ。という、やみくもな思いこみを追いかけようとしているに過 ぎない。  

「それはもうアイリッシュミュージックでは無いよ」  このようにおっしゃる諸兄もおいでになる事だろう。しかし、それでも、 field セッションのサウンドはこれからどんどん変化するだろうし、何らかの 音楽的音楽に向かって果てしなく突き進んで行くはずだ。また、そうありたい と思っている。

<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・最終回のようになってしま いましたが、最終回ではありましぇん>                 

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2005年8月号

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■ field どたばたセッションの現場から

■ボイパでイチコロ                          

■field 洲崎一彦

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 この夏は、ちょっとしたアイ研新入部員ラッシュだった(アイ研= fieldア イルランド音楽研究会)。色々な人達がわっと入部してくれたのだが、その中 に少し毛色の変わった若者がいた。  

 彼は、ほとんど、アイリッシュ音楽を聴いたことがない。でも、とにかく、 バウロンに興味を持った!のだった。field にやって来た時も、自分のバウロ ンは持ってない、でも、時々友達のを借りている、と言って手ぶらの丸腰。何 で、バウロン持ってる友達が来ないでお前が来るねん?!  

 でも、彼はまったく音楽をやっていないというわけではなくて、パーカッ ション全般をやってるということなのだが、一番得意なのは「ボイパ」だと言 う。  

 なんじゃ? そら? ボイパ? 何それ?   

近くにいた別の若者が、  

「ボイパ? へえ〜? すごいなー」 なんて言うてる。そーか、若い奴らは知ってるのか・・・  

「ちょっと、やってみてよ」  

「マイクが無いとムリですねー」  

 なんて会話! 何それ? 誰か、早く、教えて!教えてくれー!  

「ボイスパーカッションの事ですよ」  

 そうなのだ。彼は、口をマイクにくっつけて、「プッ」とか「パッ」とか「シ ュッ」とかの声を発しながらパーカッションの音を出すという人だったのだ。    

 それはいい! 君はバウロンなんてもうどうでもいいから、それで、アイ リッシュ・セッションに参加しなさい!  と、誘ったものの、彼自身がなかなか本気にしてくれない。それで、field の夏のパーティーに出演する予定だったシケメンというユニットの練習に、強 引に合流させた。  

 シケメンは、フィドルとフルートのデュオに、時々、私がブズーキで参加し たり、また別の人がギターで参加したりする不定期ユニットなのだが、ちょう ど、私が入って、アイリッシュ・ダンスチューンのビートとノリの研究に取り 組もうとしていたのだ。が、最近は少々暗礁に乗り上げつつあった。  

 「ビート」って何? 「ノリ」って何? という世界は、みんなが決まった 言葉の定義を把握して語っているわけではなくて、このような語はミュージ シャン同士でもけっこう雰囲気言葉と化している部分が大きい。  

 ビール片手にこういう話で議論するのは大いに盛り上がるのだが、それぞれ が、楽器を持って集まってしまうと、個人個人の感覚の違いがモロに出てし まって、大いに盛り下がる話題でもある。  

 それで、往々にして、  

「楽器によってアタックも違うしなあ〜」  

「そうそう、楽器によって感覚が変わって当然でしょう?」  

 というように、みんなで安全地帯に逃げ込んでしまうことになる。  本当はそんな問題ではない。  そこで、  

 ボイスパーカッションの彼は楽器というものを持たない。さあ、どうする?!  

 私を含めたシケメンの面々は、大いに追いつめられるというわけだ。  

 「ビート」や「ノリ」を決定する要素は多岐に渡るが、基本的には「1拍の 内容をどのように感じるか?」と「アクセントの位置」という要素に負う所が 大きい。  

 私も、勝手な想像で、ボイスパーカッションと言えばヒップホップ系の黒人 ノリのああいう感じだろうし、たぶん、全面的に16ビートの応酬だろうとタカ をくくっていたわけだが、蓋を開けてみると、彼のボイスはこれがまったくそ のとおり! 見事に16ビート天国。  

 つまり、彼の身体そのものが、1拍を与えられると反射的にそれを4つに刻 んでしまう。口から発せられる音、以前に、彼の身体がまずそのように反応し ている。これは、非常に分かりやすい、「ビートを感じる人間の様子」を現し た絵のようなモデル。    

 面白いことになりそう! とにかく、自由に参加しろ、と、こちらは、16 ビートでも違和感の少ないリールを垂れ流しに演奏する。  

 これが、実に、良いあんばい。非常に面白いのだ! 何が良いあんばいかと いうと、マイクを使うので、音量調整が自由自在である事だ。  普通、だいたい、打楽器はそれ自体音量が大きいので、バウロンなどでも、 セッションではしばしば「うるさい」楽器として扱われてしまう事がある。ま して、ラテン・パーカッションやドラムスになると、他の楽器をマイクで増幅 しても追いつかない。それらに比べると、ボイパは非常に扱いやすい。  手元のマイクミキサーのボリュームを上げ下げすれば全てがコントロールで きる。単純に言うと、他の楽器のヒトがボイパをあまり聴いてないなと思えば ボリュームを上げる。聴きすぎて自分のビートを崩しているなと思えばボリ ュームを絞ればいいのだ。  

 ところで、ミュージシャンが楽器を演奏する時の自分自身の耳の使い方ほど 微妙なものはない。自分が発する音、ヒトが出す音。それを、どれぐらい意識 的に聴き分けるのか? 自然に耳に飛び込んで来るに任せるのか、あるいは、 意識的に何かを選択して聴くのか? 逆に、意識的に何かを聴かないのか?  この辺のバランスひとつで、そのミュージシャン自身の出す音がまるで変わっ てしまうのだ。  

 そういう意味では、「ビート」の問題で煮詰まっていたシケメンには、この 際、まったく違う拍解釈であるボイパの16ビートを強制的に意識して聴かせて みるのも面白い。つまり、私はマイクのボリュームを少し上げることにしたの だ!  

 私たちは、こういった感じでさんざん遊んだ。遊び散らかした結果 、では、 ボイパを入れたリールはどんな音楽になったのか?   

 いやもう、それは不問でお願いします。武士の情け、もののふのあはれ。  私たちはこの状況を思いっきり楽しんだ。これが当面の目的だったのだから、 それで充分なのです。  

 でも、field の夏パーティーでは、このメンバーで、シケメンは何曲かのア イリッシュ・チューンを演奏したのだった。  

 これを、観てくれていた、アイルランド人のマテオ・カレン君  「こんなのは、世界のどこでもやってないよー!」 と言って、大興奮してくれたのだが、  

 「いやいや、絶対どっかでもうやってるよ。こんなにフィットするんやから」 と内心、反論をする私だった。  

 もっとも、このパーティー。ステージの目の前では、例のアイリッシュDJの 奴らがレコードのターンテーブルを忙しげに回している、というような環境 だったんですが・・・・。

<洲崎一彦:Irish pub field のおやじ・音楽って聴くのにも体力要りますね。 え?そんなことないって?>                 

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2005年7月号

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■ field どたばたセッションの現場から ■

■Aoife(イファ)のこと

■ field 洲崎一彦

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 先日の祇園祭宵山の field 恒例宵山大セッションは、日常のセッションと は違って、なかなか凄まじかった。  

 field のある四条烏丸界隈は祇園祭宵山の中心地域である。field の通りか らひとつ南の四条通りには、山鉾巡行の先頭を切る長刀鉾が鎮座する。夜空に は、各山鉾の祇園囃子が風に流れ、四条通りと烏丸通りは歩行者天国となり、 field は、浴衣掛けの人々の海に浮かぶ孤島のようなありさまになる。  

 そして、今年も、3階のバルコニーを解放し、遠くに、人々の雑踏と祇園囃 子が交錯する宵山の夜空に向かって大セッションを繰り広げたのだった。  

 今年は、いつものセッションとは違って、field アイ研創設当時の珍しいメ ンバーが参加してくれた。    

 field アイルランド音楽研究会、会員番号95番のドニゴール娘、イファ・マ クガリゴだ。

 2000年当時、イファは、スコットランドのグラスゴウの美大生で、京都の精 華大学に版画の勉強のために日本留学をしていた。彼女が初めて field を訪 れた時、すでに、彼女の留学期間はその半分以上が過ぎた後だったのだが、そ の後、彼女は足繁く field に通ってくれるようになった。  

 そして、彼女は field セッションに遭遇した。  

 もの凄くびっくりしたらしい。実は、彼女の、今もドニゴールに暮らす父上 は地元のフィドラーだったという。子供の頃、その父親からフィドルの手ほど きを受けたというが、今はすっかり「パンク」(彼女の発音では「ポンク」) が好きだという今時の女子大生イファは、恐らくは浮世絵等で有名な日本くん だりまで版画の勉強をしに来たわけで、何ヶ月もホームシックにかかり、ふと、 Irish Pub なるものを見つけて、ちょっと入ってみた。たぶん、そんな所だっ たのだろうと思う。そこには、彼女が訪れる2ヶ月前に、彼女の地元、ドニ ゴールの英雄「Altan」が来ていたのだった。

 Altan のメンバーがサインをしたバウロンに狂喜乱舞していたイファが、 field のセッションに遭遇して、  

「何か、貸してもらえるフィドルはないか?」という。  

「それなら、この前、Altan のキーラン・トゥーリッシュが弾いたフィドル があるよ」 と言って、

 キーランが弾いたのは本当だが、実はメチャメチャ安物のフィドル を貸してあげると、彼女は今にも気絶しそうになっていた。  

 確かに、子供の頃にやっただけ、という彼女のフィドルの演奏は、初めは実 にたどたどしかったが、何よりも、誰かが何かのチューンを始めると、それが 彼女の深い記憶を刺激して、つるつるとメロディーを思い出しているらしいそ の様が印象的だった。突然、再開してまだ少し慣れないフィドルで、次から次 へと思い出す、湧き出すメロディーをうまく表現できないもどかしさみたいな ものがありありと現れていた。  

 日本では、彼女は自分の楽器を持っていなかったから、field に来て、キー ラン印の安物フィドルを弾くことしか練習のしようが無かったはずなのに、 徐々に彼女は、より、つるつるとチューンを奏でるようになって来て、夏の パーティーでは、ぶちょーとデュオで演奏したりもした。

 このように、彼女は、あっという間にできたばかりの field アイ研にはな くてはならないメンバーになった。そうして、9月に帰国してしまったのだっ た。  

 しばらくは、彼女から頻繁に便りが来た。帰ってから、ちゃんとした自分の フィドルを手に入れて、地元のセッションに通い出した、とか。父親が、何で 日本に行ってアイリッシュ音楽を覚えて来るんじゃ?と目を丸くしてる、とか。 グラスゴウの大学に戻ってみると、グラスゴウにアンディー・アーバインが来 るというので、そのライブを観に行ったとか。  

 私たちが、  

「アンディもアイ研部員だよ」 なんて言うもんだから、  

「声かけてみようかな?」 と迷ってるので  

「部員バッジ着けて行け!」 と、こっちも煽る。  

 アンディはとってもいい人だった。ライブが終わってから、恐る恐る声をか けたら、すごくフレンドリーに話をしてくれた。京都のこと、field のことを たくさん話した。と言って、アンディのライブレポートをアイ研のHPのために 送ってくれたりした。    

 そんな、イファも、だんだんと連絡がなくなってしまっていたのが、先月、 突然メールが飛び込んで来たのだ。7月に旅行で日本に行くから絶対 field のセッションに行くよ!って。  

 他にも、今はスコットランドの clova というバンドに加入して、フィドル とコーラスをやってるとも書いてあった。そして、そのイファの京都訪問が ちょうど祇園祭と重なったというわけだったのだ。  5年振りのイファのフィドルは驚くほど変貌していた。もう、完全に、立派 過ぎるほどのアイリッシュ・フィドル!!    

 荒々しいが雑ではなく、身体中が躍動しているような凄まじいビート!!  5年前のあんなにたどたどしかったプレイの面影は微塵もない。  

 確かに彼女の父親はドニゴールのフィドラーだけど、彼女は帰国後の時間の 大部分をスコットランドのグラスゴウで過ごしているはずだ。それでも、もし かしたら、この凄まじい横ノリこそが本物のドニゴール・フィドルなんじゃな いか?と思わせるような泥臭さ。確かに巧くはない。けれど、あるいは、だか らこそ、際だつ独特のビート感。  

 「これは、ちょっと真似できない」  

 こんな風に思わせるインパクトはパット・オコナー以来かもしれない。  

 とんでもないフィドラーに成長していたもんだ。  

 最近、このクランコラ誌上でも、アイリッシュ・ダンス・ミュージックの ビート感について、あれこれ、駄々をこねていた私だったけれど、いくら理屈 をこねても「無駄!無駄!」と、一気に吹き飛ばされてしまったかの思いであ る。  

 惜しむらくは、彼女がくれた彼女の所属するバンド、clova のCDを聴いてみ たら、それは、オリジナル・ソングのフォークグループで、かつ、彼女のプレ イの占める割合が思ったより小さかったこと。  

 センスのいいヴォーカル・ナンバーが好感の持てる良いバンドだと思ったけ れど、彼女のセッション・プレイを聴いた直後では、やはり、あの凄まじい横 ノリのダンス・チューンを聴きたかった。  しかし、この、イファ・マクガリゴも、確かに、field アイ研が生んだアイ リッシュ・ミュージシャンである。じわじわっと嬉しくなってしまう事実だ。

  <洲崎一彦:Irish pub field のおやじ・5年もこの実体感の希薄なサークル field アイ研をやってきたものだと思いつつ、イファが再訪する今まで続けて いて本当によかったとつくづく思った次第。>                 

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2005年6月号

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■ field どたばたセッションの現場から

■CDミックスと怠惰な耳、そして怠慢なリスナー

■field 洲崎一彦

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 前回は、fieldアイ研の「合宿顛末記」を書いた。そしてその後、あのドタ バタ合宿を経て、fieldアイ研はどうなったか? 実は何ともなっていなかっ たりするのだった。日常に戻れば戻ったで、ライブを控えた連中や、次の予定 に追われる人々……。合宿で出現した「音出すことの緊張感」はいったいどこ へ行っちまったのか? 唯一、初心者のお嬢さんたちが俄然やる気を出してく れているのが救いかもしれない。   

 しかし、その間も、field STUDIO の大モニタースピーカーの前では、エン ジニアあにめ君の、合宿録音のミックスダウン作業が続いていた。  

「何とかなりそうか?」  

「・・・凄いノイズなんですよ・・・」  

「クルマとかの音は別にそのままでええやろ?」  

「遠くのモーターボートの音が楽器の倍音と干渉して、低周波のうねりに なったりしてるんです」  

「それって、ひどいノイズなんか?」  

「耳には聞こえませんけどね」  

「それは、まずいのか?」  

「普通はまずいですね」  

「どうまずい?」  

「可能性の問題ですが、再生装置によってはスピーカーに負担がかかります」  

「スピーカーが飛ぶのか?」  

「可能性ですけど」  

「ウオークマンで聴くと鼓膜が破れる?」  

「そこまではナイでしょう」  

「でも、脳がやられるとか?」  

「・・・、じゃあもうボクやられてますね」  

「・・・ワシも今さっき聴いてしもたぞ!」  

「・・・・・・・」  

「何とか除去できんのか?」  

「手動なら出来ないこともないですけど・・」  

「それ、出来るだけ消してくれ・・・タノム・・」  

 というような格闘が続いていたのだった。  

 今回の録音は大まかには2本のマイクを12人のプレイヤーの頭上に立ててス テレオ録音をしている。それに、ステージ上のPA用の数本のマイクを分岐して 補助的に混ぜている。特に私のブズーキからは楽器に内蔵されているピック アップからのラインも録音側に分岐させていたのだが、このブズーキのライン がけっこうノイズを拾っていたようだった。  

 だから、最近の「ミックスダウンでいじくればどうにでもなる」自由度は極 めて低く、例えば、こういう時によくある、音をはずしている人の音だけを消 してしまう、なんてことも当然やってない(やりたくても出来ない)。正真正 銘、その時に音を出していた人の音が全部入っている。  だから、音質の変化がついたとすれば、上記のような、外からの雑音や電気 的ノイズと楽器の倍音が変なふうに共振して実際には無かったであろう音が記 録されてしまったノイズ成分を除去する過程で、楽器原音の音質に影響を与え てしまったというのが原因である。  

 もしかしたら、頭上のマイク2本。まったくこの2本だけだったら、こんな 変な共振は起こらなかったのかもしれないが、最初にこの2本のマイクだけが 拾ったままの音をモニターした時は  「これはCDにするのはムリだろう」 というほど、まわりの実に色々な音を拾っていた。クルマやモーターボートは もちろん、大フリーマーケットの雑踏の中には発動機の音すら聞こえていたし、 人の声や遠くの拡声器の声など、ありとあらゆる音が混ぜ混ぜになっていた。  つ

 まり、今回のこの録音のミックスダウン作業というのは、いかにして、楽 器の音だけを目立たせて、音楽録音として聴けるものにするか、というのが課 題だった。  

 今回、このようなミックスダウン作業に断片的だが立ち会ってみて面 白いな あと思ったことがある。最近の、一度コンピューターに取り込んだ音のデータ はその波形レベルにまで分解して調整することが可能だという技術的なことは 素直な驚きではあるけれど、むしろ、その技術によって人間側の音の聴き方、 聞こえ方が変わってしまうという事である。人間の耳というのはかくも柔軟か つ信用がおけない。  

 波形レベルにまで分解した音をモニターするというのは、時間にすればゼロ コンマ何秒という単位になる。少し古いが昔TVでやってた「ウルトラ・イント ロ・ドレミファドン」みたいなもんである。そんな単位で音を調整して行くわ けだから、1曲調整し終わって通してモニターする時も、耳はゼロコンマ単位 の耳のままなのだ。つまり、もう音楽には聞こえない! ゼロコンマの連続音 にしか聞こえない! そんな時は一旦耳を休ませる、つまりなるべく音を聞か ない。まあ、しばしネットでも見るか、てな感じがいい。  

 そして、しばらく間をあけてから、スピーカーをサブモニターに代えたり、 状況を少し変えて、やっとさっきのゼロコンマの連続が音楽に聞こえるように なる。でも、また、そこで、新しいノイズを発見した瞬間!作業は振り出しに 戻る・・・という・・・これはもう罰ゲームのような世界ですね。  

 今、ここでは、別にレコーディング・エンジニアリングの大変さを強調した いわけではない。この、人間の耳の特性というものに注目したいのだ。言い換 えれば、

「慣らされると切り替えが効かない!」

 という特性だ。私たちはこん な耳を使って音楽を演奏しているという事実をどう見るか?  

 演奏者が常に頼りにできるのは自分の耳しかないわけだ。その耳がこんなに 怠け者なのだから、演奏はいつでもすぐに惰性になるという潜在的方向の上に 進行するのである。しかし、実際の演奏者にこの種の危機感が、どれほどにあ るだろうか?  

 逆に、この耳の弱点を常に意識する事で自分の耳をコントロールして、演奏 をいつも新鮮なものに保つことも可能なわけだ。問題は「聴き方」という部分 で細かく意識の切り替えができるかどうかにかかっている。  

 これは、実は、是非ともリスナー諸兄に厳しく演奏者をチェックしていただ きたい問題なのだ。私の個人的思いではあるけれど、日本のリスナーは演奏者 を甘やかし過ぎる。リスナーの厳しいチェックが良い演奏者を育て、良い音楽 を生むのではないか!?。  

 日本の多くのリスナーは、演奏者を「専門家」と見なしていつでも奉ってし まう傾向にあるように思うのだが、これは、市場経済で言う所の「需要と供 給」の原理に反している。需要側が供給側を無条件に受け入れるのは非常に危 険なことだ。需要側の供給側に対する厳しいチェックが働かないと、モノの質 は確実に落ちる。これはもう絶対に落ちる。旧ソ連の日曜雑貨の質が最悪だっ たように。  

 これは、いたって当たり前の原理のはずなのだけれど、このような原則的な リスナーとプレイヤーの関係は、どうも実際には非常に成立しにくい事になっ ているように感じるのは思い過ごしだろうか?  

 この際、日本のマイナー音楽世界は、今や世界でも希に見る「社会主義計画 経済型構造」を持っている!という問題提議はどうだろう?

 <洲崎一彦:Irish pub field のおやじ・《field Session CD vol.2》はアイ研 HPで案内中。field店頭販売の他、通販も可。詳しくはお問い合わせください。 http://www.geocities.jp/kyotofield/>                 

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2005年5月号

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■ field どたばたセッションの現場から

■ fieldアイ研、合宿顛末記

■ field 洲崎一彦

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 今年になってからというもの、私はこの『クラン・コラ』誌上で、一種ボヤ キにも似た音楽論理を吠え続けているわけだが、これは、自然とわが field アイ研の連中の目にも触れるわけで、そんな中にはちらほらと質問をぶつけて くる若者も出てきた(というか、出て来てしまった! ま〜ずい!)。

 そんな ある日。    

 折しも、field アイ研実行委員達は5月の連休に向けて、恒例のアイ研合宿 企画に頭を悩ませている所だった。彼らの悩みは、今年は準備にかかるのが遅 れたため参加者が少なくなるのではないかという懸念と、参加者の初心者率が 高くなりそうなので、例年、合宿場所である琵琶湖畔近江舞子浜の大フリー マーケット祭りに面して演奏する野外ライブできっちり演奏できるバンドがひ とつも無いかもしれないという懸念だった。  

 そこで、彼らは一時、「クイズ大会」なるものを企画して、合宿は全面 リク レーション寄りに傾きかけたものの、思い出したようにこちらにお鉢を回して 来た。  

 「ここは、スさん。一度、ガツンとセッション実践セミナーか何か、合宿で かましてもらえませんか?」  

「えー! ワシは口だけおやじでええのや! 表に出たら終わる!」  

「無責任やなあ。クランコラで偉そうな事ばっかり言うてるくせに」  

「とりあえず、今出てる合宿企画はどんなんや?」  

「クイズ大会です」  

「えーやん! 楽しそうやな。賞品も用意するのか?」  

「音楽的な企画はゼロなんですよ」  

「いつもの野外ステージがあるやろ?」  

「既存のバンドやユニット持ってる連中は合宿に来ません」  

「なにい〜?」  

「初めは、次に作るセッションCDの選曲と練習を、合宿のテーマにしようと 思ってたんですけど」  

「レコーディングに参加する予定の奴らがそもそも合宿に来ないのか!」  

「そういう事です」  

「ほな、誰が来るねん?」  

「今、申し込みが出てるのは、ほとんどが初心者です」  

「・・・・クイズ大会しかないな」  

 というわけで、私もすっかり実行委員会の合宿企画会議に巻き込まれてしま うことになった。例年の合宿では  

「ワシは保養に来てるんやから、放っておいてくれよ」

 と、飲んで寝て飲んで寝ての2日間を過ごすのが常だった私だ。昨年の合宿で は自分の楽器をケースから一度も出さなかったというほどのていたらくだった。 そんな私が合宿の企画会議に巻き込まれてしまうなんて!  

 しかし、そういうふうに既存のアイ研部員の連中にノリが無いとあれば如何 ともし難いではないか。そもそも合宿やる意味があるのか? でも、新入部員 や初参加の人たちは楽しみにしてるんですよって聞かされると、ノリが無いか ら中止というわけにもいかんな。  

 これは、そもそも、アイ研の新旧交代とか、いわゆるサークル自体の構造改 革等が必要なのではないか、という質の問題で、合宿ひとつを取ってどうたら こうたら考えてもしようがないものではないのか?   

 一同:そうだ! そうだ!  

 でも、このまま例年のようにこれといって何の企画もたてずにダラダラ合宿 に臨めば、楽しみにしている初参加の人たちも白けてしまって、結局、アイ研 というサークルは存亡の危機を迎えるぞ!  

 一同:そうだ! そうだ!  

 ふつう、こういう音楽サークルの合宿っていうのはどんな事やるのか誰か知 ってるか?  

 一同:知らないっす!  

 クイズ大会・・・するかなあ?  

 一同:しないと思います!  

 というような、珍問答が果てしなく続く大ミーティングが繰り返された末に。  

「わかった、ワシが何かしたらええのやな?」  

「はったりがバレても、それはその時でええのやないですか?」  

「ワシが失脚して、それでアイ研は安泰やわなあ?」  

「何もそこまで言ってませんよ」  

「ボクらも、スさんの考えには興味あるんですよって言ってるでしょ」  

「こんな機会でもないと、具体的に話聞けないですやん」  

「ほな、今ここで話しよか?」  

「そうじゃなくてえー」  

「だから、合宿で、みんなに向かってセミナーというか練習会というか」  

「わかったわかった、そんなに責めるなよ。・・・何か考えるから」  

「別に責めてないですよ、なあ?」  

「責めてないっす」  

「よし、そんなら、そのセッションCD第二弾も同時にやっつけるというのは、 どや?」  

「どういうことですか?」  

「合宿中にレコーディングするのよ!」  

「えー!? 予定してる主要メンバーはほとんど来ませんよ」  

「そうですよ! 例えばフィドラーとかは1人も来ないかもしれないんです よ」  

「居る人間だけでやればええのや!」  

「最悪、初心者ばかりになるかもしれないんですよ」  

「翌日にレコーディングするから、という事やったら、前夜の練習会も皆必 死になるやろ?」

「キツイなあ〜」  

「新入部員にはよけい悪印象じゃないですか?」  

「ここはインパクト勝負や!」  

「また〜、悪い癖ですよ〜」  

「クイズ大会とどっちがええ?」  

「・・・・」  

「・・・・」  

「よし、ちょっと、あにめ呼んでくるわ!」  

 というわけで、field STUDIO のエンジニア、あにめ君に録音の仕方とスタ ジオから持ち出せる機材の相談をする。ある程度の機材を琵琶湖畔まで運び出 して野外セッションのライブ・レコーディングが可能かどうか? それだけ答 えてくれ! あにめ!  

「可能です」  

 よっしゃあ! ほな、3日後に選曲会議。それが終わったら、当日までに全 曲の楽譜をそろえて、参加申し込み締め切り日に人数を確認して、人数分のコ ピーをしたらしまいじゃ!  

「選曲はボクらですか?」  

「当たり前やろ? ほかに誰がやるねん?」  

「スさんも考えてくれるんでしょ?」  

「ワシは曲と曲名が一致せん!」  

「レコーディングするって言うたら○×あたりは合宿に来てくれるかもしれ ませんね」  

「あほ! それやったら意味無いやろ?」  

「でも、保険ぐらいは作っとかんと」  

「よーく考えてみい? レコーディングは目的ちゃうで」  

「ほな、何が目的なんですか?」  

「明日レコーディングするで!という緊張感や!」  

「ドッキリカメラみたいなもんですか?」  

「だんだん分かってきたな」  

「ほな、これは、当日までの秘密企画というわけですね?」  

「それや! 当日の夕飯の時に発表しよ!」  

「それまでは誰にも言わない?」  

「そう。誰にも言わないサプライズ企画やな」  

「うーん、危険な感じですよー、それ」  

「危険かあ?」  

「初めから教えておいてくれたらよかったのに、って声は絶対出ますね」  

「ほな、現地集合した時に渡す合宿プログラムに書いとけ」  

「プログラムなんか誰もその場で全部読みませんよ」  

「あほ! プログラムは読むもんや!そやろ?」  

「・・・はい」  

「そ・そうですね・・・」

 

 ■合宿1日目  そして、ついについにやってまいりましたよ。連休たけなわの5月3日、合 宿当日。  集合時間の午後1時早々に、あにめ君は黙々と民宿コムラの軒下野外ステー ジのライブセッティングと録音マイクと機材のセッティングにかかっている。 例年よりマイクの数がやたら多いのに誰も疑問を持たない事自体がもうたるん でるというもんじゃ!  

 夕食準備までは、PAチェックがてら、ここで適当にセッション!セッション!  マイク・ケーブルが怪しく引き込まれた民宿コムラの食堂の片隅では、あにめ 君がヘッドホーンかぶって Mac のモニターとにらめっこしながら録音のシミ ュレーションに余念がない。この、あにめ君の普通じゃない動きになぜ誰も疑 問を持たない?! 

 私は企画発表を前にした緊張感も手伝って、内心、少しい らついていた。  そして、夕食の準備が終わって、全員が食事のテーブルについた!  

 「明日、全員のセッションをレコーディングします。そして、これをアイ研 セッションCDの第二弾にします」  

「夕食が終わったら、1時間後に集合して、明日に向けてのスパルタ練習会 をします」  (あ〜!言っちゃった〜!)  

 というのは、私はこの時、そのスパルタ練習会で何をするのか具体的にまだ 何も考えていなかったのだった。  夕食後は後かたづけをさぼって自室(例年私が泊まるのは窓のない地下布団 部屋なのだが)に戻ってしばし寝転がっていた。すると、すぐ上の食堂で、早 くも数人が楽器を鳴らし始めたのが聞こえて来る。それぞれの足踏みがドスン ドスン真下の私の所に響いて来る。ちょっとしたセッション風になってきてい る様子だ。  

 うーん、真下に居るこの不快感は何や? いかに真下の部屋と言えども、楽 器の音そのものは直接がんがん聞こえるものではない。足踏みのドスンドスン の方が明らかに大きく響く。そして、薄く聞こえる楽器の音とこの足踏みがて んで合っていない。というか、皆それぞれの足踏みそのものが合っていない。 だから、ドンドンではなくてドスンドスンと響く。ひどい騒音である。

 この、音楽と演奏者の足踏みが合ってないという事態は、field セッション でも場合によってはよく起こる。特にセッション人数の多い時に顕著に起こる。 時には、セッションを聴くでもなく飲んでいるお客さんから  

「あれ、足踏みずれてるの聴いてると悪酔いするね〜」

  などと指摘されることもある。こうなると、セッションも立派なの営業妨害行 為だ。  

 地下部屋で不規則振動音に身もだえしながら、そんな、店の日常を思い出す。  

 よし、これで行こう!  

「足踏みをせずに、他人の音を聞く!」  

 テーマはこれで決まりだ。  

 そうして、ジッサイに始まったスパルタ練習会。それはまるで、小学校とい うより幼稚園の音楽の授業のような光景になってしまった。中には抵抗のある 人もいたみたいだったが、皆おおむね素直にトライしてくれたので、何とか練 習会の体裁は作ることができた。    

 途中、近くにキャンプに来ていたアイルランド人一行が、  

「何でこんな所でアイリッシュ音楽が聞こえてくるのか?」

 と、音につられてやって来た。予定外の珍客来訪である。  

 これで、練習会の緊張感は一旦崩れたが、この間に実行委員の2人と陣中確 認しばしの立ち話。  

「いやー、これだけ人がいると、ちょっとした事やるにも時間食うなあ」  

「それは、しようがないでしょう」  

「こんな感じでイケてるんかなあ?」  

「わりと面白いですよ。こんな練習たぶん誰もやったこと無いと思います」  

「もう時間も遅いけど、この後はどうする?」  

「さっきの珍客で一度バラけてしまいましたからね」  

「今は、所々に個人練習の固まりができているので、ちょこちょこのぞいて 回るとか」  

「よし、それはお前らに任せた。ワシはもう飲む」  

「そんなー。ここまでやったんやから最後までシメてくださいよ」  

「まあまあ、見える所にはおるから」

 

  ■合宿2日目  この調子でどこまでダラダラ続くのやろうと心配になっている読者の皆さん。 このまま書き進めてもキリがないのが書いていてもだんだん分かってきたので、 結論だけ記す事にします。  

 この長い長い夜が明けて翌日午後、フィドル2名、ホイッスル5名、フルー ト1名、イリアン・パイプ1名、ギター1名、ピアノ1名、ブズーキ1名で構 成された初心者率の高い演奏参加者総勢12名。約50分弱のライブレコーディン グは見事に達成されたのだった。  

 予定の都合で、翌日のライブレコーディング時間前に帰らなければならなか った人が数名いたのが残念だが、レコーディングはあくまで結果 論。前夜の緊 張感を皆で共有したことに大きな意味があったと、今ではこの確信を大にして いる次第である。  

 後日、合宿直後の field セッションで、合宿に参加していた初心者ホイッ スル娘が、合宿で配った楽譜集を持参してやって来て、果敢にセッションの輪 に食らいついている光景を目にした時は、ちょっとジーンとしてしまった。

 <洲崎一彦:Irish pub field のおやじ・fieldアイ研HPで、合宿に参加した アンディー君が合宿日記を書いています。こちらもどうぞ。 http://www.geocities.jp/kyotofield/>                  

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2005年4月号

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■ field どたばたセッションの現場から

■Mozaik! モザイク!

■field 洲崎一彦

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 前号で、アイリッシュ音楽の分岐点という話をした。この分岐点とは、いわ ゆる民族音楽の地域個別性に由来する特殊性と、汎音楽としての普遍性。一音 楽家としては、このどちらを追求テーマの中心に置くかという分かれ道が確か に存在するのではないかという話だった。  

 この分岐点という問題のメカニズムは、異なったジャンルの音楽の間にも機 能するし、個人個人の音楽個性の間にも機能する。つまり、個別 の個性と普遍 的音楽性の間には必ず働くメカニズムとしてあらゆる音楽家がそれぞれの方法 で何らかの意識を持つもので、これを意識せずに音楽を作り出せる音楽家が存 在するとしたら、彼こそが真の天才と呼ばれるのだろうと思う。  

 モザイクはもしかしたらメンバー5人全員がこの真の天才なのかもしれない。 このお爺たち(私がオッサンなので私より年長の先生方に敬意を表して)の演 奏は確実にこの今問題としている分岐点を超えていた。何も特別 な事をしなく てもそれが軽々と超えられることを示してくれた。  

 確信は決して難しい事ではなかった。私は、ライブ会場だった磔磔で、この ような民族音楽系のアコースティック・アンサンブルに初めて生で接したパン クス少女が眼を潤ませて放心している姿を見た。普段はビートに合わせてヘッ ド・バンキングで激しく頭を前後に揺すっているであろう彼女は、体を微動だ にさせずに音楽そのものを感じていた。この原初的で純粋な感受は、そこに普 遍的音楽性の高揚が確実に存在していた事を物語る。  

 彼らの音楽は、アイルランド、東欧、アメリカン・オールドタイムのそれぞ れの民族音楽のエッセンスを融合させたものだったが、珍しいブルガリアの楽 器や東欧の民族音楽が持つ複雑な奇数拍子を駆使しながらも奇をてらった意図 を全く感じさせなかった。アンディ・アーバインの歌を核としながら、ブルー ス・モルスキーのいかにもオールド・アメリカンな歌声、かなり珍しいドーナ ル・ラニーの歌を交えて、かつ、通常考えられるボーカル・バンドに比べると 遙かにインストゥルメンタルの比重が重く、全体のサウンドが塊となってする すると流れ出す印象を受けた。  

 演奏技術もアレンジも確かにもの凄い水準なのだが、そういう演奏にありが ちな聴くしんどさが全く無い。聴く者に無用な緊張感を与えない。これは、つ まり、それぞれが単に突出した演奏技術に頼ってアンサンブルを作っているの では無い、ということなのではないかと思った。  

 バンドのひとりひとりが全員楽器巧者なら放っておいても素晴らしいアンサ ンブルが生まれだろうと思うのはとんでもない楽観である。それぞれが才能あ ふれる演奏者であればあるほど、放っておいたら通常は面白くもなんともない アンサンブルになる危険性の方が高いと考えていい。

 では、どうすれば、こんなアンサンブルが可能だったのか? その答えは、 メンバーひとりひとりが音楽のある種の普遍的要素を、共通認識を持って確認 し合っているとしか私には考えられなかった。

 それは例えば

 「1拍をどのよう に感じるか」

 というごくごく当たり前の事だ。  

 音楽的背景が共通する音楽家同士であれば、特に意識しなくても、この問題 は単なる楽器演奏の基本程度の話で済ませてしまえるのだが、音楽的背景が違 ったり、経験の差異が著しい者同士がアンサンブルを作る時は、この問題はど んなに意識しても過ぎる事はない大きな問題となる。しかも、ジャンルに関係 なく常に要求される問題であるにも関わらず、楽典などにはほとんど記述され ない、つまり、音楽理論としてさえ整備されていない基本概念だから、これは 非常に微妙。そして、このことは、しばしば、演奏の現場ではひどく忘れられ がちな問題でもあるのだ。

 例えば、分業が進んだクラシック音楽ではオーケストラの指揮者のみが日々 この問題に頭を悩ませているだろうし、ジャズではドラムス、ベース、ピアノ、 ギターの4リズムが、ロックではドラムス&ベースの諸君が「合わない〜合わ ない〜」とボヤきつつ日夜格闘している、しばしば、なんとなく意識されるに 過ぎない問題なのだ。回りの演奏者も気がつかない人は永遠に気がつかない。 つまり、あらためて意識される機会が意外と少ない、しかし、重大。  

 それは、たぶん、この問題が当たり前すぎる事だからだ。そんな当たり前の 事がこれほど困難で重要な問題だなんて演奏者はいまさら気付きたくもない。 だから、意識せずに通り過ぎることができるならそれに越した事はないという 心理になるのも当たり前、というようなニュアンスの話なのだ。  

 そう。こんな話なのだ。こんなことを、モザイクの超ベテランたちはあらた めてしっかりと意識された形跡のある音楽をつるりと演奏した。一般 的にはベ テランほどこんな面倒な所に意識を立ち返らせるのに抵抗を覚えるはずなのに。 あのお爺たちはしっかりとこの部分を押さえ、私が問題定義した「民族音楽の 分岐点」を軽々と飛び越えて、あれほどの音の塊を放ったのだ。

 あるいは、これが、大プロデューサー、ドーナル・ラニーのマジックなのか?  

 出来る事なら、本番のみならず、彼らが来日して丸々1週間ずっと籠もって リハーサルを重ねていたという、その現場が観てみたかった。    

 <洲崎一彦:Irish pub field のおやじ・Mozaik体験後、何やら萎えた所もあ るし、よけいに熱くなってきた所もある…>                  

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2005年3月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ アイリッシュ音楽の分岐点

■ field 洲崎一彦

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 少し前の事だが、アイリッシュ音楽の分岐点というというか何というか、そ ういう感じのものを漠然と感じたことがあった。前号の私の原稿の内容と少し 関連付けた話ができるかもしれないので、今回はこの話題から話を始めようと 思う。    

 前号の私の原稿に対して、特に強い反論があったわけではないが、  

 「アイリッシュ音楽は民族音楽であって、そのようにジャズと同じような音 楽論理で論じるべきではない」 というような意見も、取り立てて攻撃的トーンではなく私の耳に届いてはきた。 私もこういう意見にはそれなりの共感を持つ。  

 例えば、ルナサもかっこいいが、ジョン・ドハティもシブ〜い!という感性 は普通にあり得るだろう。しかし、ルナサの躍動感を作り出す音楽的メカニズ ムを解析して、これをジョン・ドハティのフィドルに当てはめて論理的に分析 すればどうなる? 

 そんなことしたら、ドハティさんはただの下手くそフィド ラーにきこえてしまうかもしれないじゃないか。でも、それはちょっと違うで しょう。ドハティはやっぱり凄いよ!という事なのだと思う。  

 演奏を志す立場からすると、この両者の方向は、演奏意志の時点から発想や アプローチがまるで違う。では、とりあえず、どっちを目指せばいいの? と いう大きな分岐点が演奏者の目の前に立ちはだかる事になる。  

 これが、冒頭に書いた「分岐点」なのだが、この「点」はこの音楽を論じる 上で、多くの場合「好み」の問題として流されがちに過ぎると思うのだ。これ は、演奏者にとっては実際には深刻な「点」なのだから。  

 ただ、一方でこんな話がある。先日、大阪の初心者向けバイオリン教室で教 えている友人がこんな事を言っていたのだ。  

「最近みんな、アイリッシュをやりたがる。どうも、アイリッシュはバイオ リン初心者向けの音楽だというイメージがあるみたい。私はアイリッシュは専 門ではないけど、決してアイリッシュはそんなものではないでしょう?」  

 かつて、アイリッシュ音楽を演奏するという行為はちょっと敷居が高いと言 われていたのに、今や、こんな事になっているのか・・・。間口が広がるとい うこと自体は非常に好ましいのだけれど・・・。  

 アイリッシュ音楽は何が特殊かというと、それは元々、合奏の概念がほとん ど無い音楽だったという歴史にあると思う。長い伝統を持つアイルランド民族 音楽が合奏の概念を取り入れたのはたかだかこの30年ぐらいの事であるという ことは何度も語られている。  

 全くの独奏には、その演奏者の感覚しか反映されることはないし、その演奏 者が心地よい音として自己完結させた音を奏でることでしか音楽が成り立たな い。そこには、一般的な音楽論理の入り込む余地さえない。例えば、もしかし たら、ジョン・ドハティーはルナサのドナ・ヘネシーのギターに合わせて演奏 することができないかもしれない。しかしそれでも、ドハティーはかっこいい。  

 もはや、伝説化しているボシーバンドやここ数年のルナサが、アイリッシュ 音楽を「編曲」するという革命的発想を持ち込んだ。その瞬間、アイリッシュ 音楽に一般的な音楽論理が入りこんだとは言え、ドハティー節に代表される、 特にメロディー演奏者の個人的感性の突出は、程度の差こそあれすべてのアイ リッシュ音楽において認めることができる。  

 乱暴に言えば、メロディー奏者は「何をしてもいい」のだという空気が広く 行き渡ってしまっているようにも思える。  

 またアイリッシュ音楽は、他の民族音楽に比べて、楽譜も数多く存在するし、 その、特に装飾音の記述が省略された楽譜は、ただ、単純な旋律の繰り返しで しかない。確かに、何もかもが楽器初心者には魅力的ではある。  

 しかし、アイルランドの伝統を持たないわれわれ異邦人が、アイリッシュ音 楽を窓口に音楽を演奏する行為を始める時、そのアイリッシュ音楽ならではの

「何をしてもいい」

空気に甘んじてしまうと、いったいどういう事になってし まうか。アイリッシュ音楽は特殊な民族音楽だからという理由で、汎用音楽論 理を排除してしまうと、いったいどんな事態が出現してしまうか。  

 答えは簡単。そこにはただの「騒音」があるだけだ。さらに悪いことに、こ の「騒音」は、演奏者の演奏意志によって確信を持って出される「音」である こと。つまり、必要な道路工事のためにしようがなく出てしまう「騒音」では なく、出そうと思って出された音が「騒音」だったという事になるのだ。  

 工事現場で「うるさい!」と言ったら、現場監督が丁寧に頭を下げてくれる だろう。しかし、演奏中のミュージシャンに「うるさい!」と言ったら喧嘩に なる。つまり、この種の「騒音」は社会暴力のメカニズムと何ら変わる事はが ない。  

 だから、私は、アイリッシュ音楽も「汎用音楽」なのだという側面 を強調し たいのだ。  

 今、この日本でアイリッシュ音楽を演奏する、あるいは演奏しようと思って いる演奏者のほとんどは大ざっぱに次の4種類の背景を持っていると言える。

1.クラシック経験者

2.ロック・バンド経験者

3.他の民族音楽の経験者

4.楽器演奏初心者  

 しかし、この4つの背景からは、アイリッシュ音楽の合奏概念に適した、汎 用音楽論理を、どうしたって見出すことができないと私には思えるのだ。  

 セッション等で演奏されるアイリッシュ音楽の大部分がリールやジグなどの ダンス曲、いわゆるダンス・ミュージックであり、その「躍動」を基本とした 上に成立することが可能で、なおかつ、瞬時即応性の合奏概念が汎用論理とし て必要なのであれば、そのヒントはモダン・ジャズのセッションに求めるしか ない。というのが、私の考えである。  

 その上で、あるいは、その先に、ドハティ的な演奏者個別 の個性の発露がア イリッシュ音楽には許されているのだから、その表現自由度は恐るべきレベル にまで達するだろう。  

 このように考えると、やはり、この音楽は何と深く広い音楽なのか!? 間 口の広さと深さが両立する、これほどの密度を持った音楽は、その存在自体が 驚異としか言いようがない。  

 そして、それだからこそ、「取り扱い注意品」でもあるのだ。

  <洲崎一彦:Irish pub field のおやじ・Macが壊れた!そしたら身体も壊し た!めでたしめでたし>                  

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2005年2月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ アイリッシュ・セッションに望むもの

■ field 洲崎一彦

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 今年に入ってからのfieldセッションは非常に活況だ。参加者の多い少ない にかかわらず、いつもけっこう骨太なサウンドが飛び交っている。従来しばし ば見られた、ただ知っている曲をいつものとおり漫然と演奏する、という状況 にはなかなか陥らない。何が変わったのか? 顔ぶれも同じだし新曲が急に増 えたわけでもない。ただ、ひとりひとりの楽器の音が以前より鮮明に聞こえる ようになってきたと思う事があるのだ。  

 他人の音が良く聞こえると、それに対する反応が早くなる。また、そういう 場合の反応は個人個人の一瞬の判断によるものだから、いわゆるアドリブ的要 素が大きくなるのだ。  

 アドリブと言えば、一般的にはモダンジャズ・セッションでのソロ回し時に 個々が即興メロディーを奏でるスタイルが連想されるけれど、即応性、即興性 という部分ではこれとほぼ同じメカニズムが働くのだと想像してほしい。もち ろん、アイリッシュ・チューンでは即興メロディを奏でる事はしないけれど、 ビートの感じ方やメロディの休符感覚の即応的変化がちょっとした装飾音やア クセントの付け方に影響を及ぼすことになる。つまり、ノリが変わる。ノリの 変化に応える。これが、元々はジャズ用語であるインタープレイ(相互即応的 合奏)を可能にする。インタープレイをジャズの占有にさせておくテはない。 合奏において演奏者相互の意識交流がある状態をインタープレイと称するなら ば、これこそが、音楽のジャンルを問わずセッションというものの醍醐味だと、 私は思うのである。いつもの曲を組み合わせを変えていつものように演奏する。 参加者の変化や個人個人の調子によって毎回「偶然」にそのサウンドは異なる。 これでは、セッションという場があまりに勿体ない。  

 アイリッシュ・チューンのメロディに特徴的なのは、いわゆる、ロールやカッ トなどの装飾音だが、こういう装飾音は言うまでもなくノリを強調するために ある。  

 ノリはビート感をコントロールすることによって生まれ、ビート感は、楽譜 上の何分の何拍子を基本としながら、細かくは、1拍をどのように感じるのか? 1拍の打点の大きさをどれぐらいにイメージするのか?から、音と音の間の休 符感覚。大きくは、1小節内でのアクセントの位置まで、耳と身体を柔軟にし さえすれば自由自在に感じ分ける事が可能なはずだ。このあたりの耳は往々に してヘタに楽器を演奏しない敏感なリスナー諸兄の方が柔軟だったりする(演 奏者の方が頭が固い場合があることはウスウスばれているでしょう)。  

 簡単な例を挙げてみよう。ジグである。ジグは掘り下げれば実に深く意味深 なビートだけれど、単純に考えれば、ふつうの楽譜が採用しているとおり6/8 拍子である。が、多くのセッションの現場でミュージシャン達が踏み鳴らす足 踏みを目の当たりにすると、彼らが単に1拍を3連符に感じた4拍子として演 奏しているとしか思えない時があるだろう。つまり、足踏みすることでビート 感が変化し、確実にノリが変わって行くのである。  

 field セッションでは一時期、メロディーのアドリブ・プレイに果 敢に挑戦 する強者たちの試みがあった。しかし、ほとんど3和音のコード数種類の進行 で完結してしまうアイリッシュ音楽においてメロディーのアドリブを成功させ るには繊細かつ細心の注意力とセンスが必要となる。モダンジャズばりにス ケールアウト(和音構成の中に無い音程)すれすれのメロディーをがんがん弾 けば、簡単に音楽そのものを破壊してしまうからだ。  

 こういう風に思う時、アイリッシュ・セッションにおけるインタープレイは、 ノリを支配するビート感のやり取りにおいてでしか成立しないという結論にな る。  

 そうすると、もはや、どこのセッションでも当たり前の光景である、皆、義 務のように曲の頭拍で踏みならす足踏み。これは、私にはどう考えても演奏の 邪魔にしか思えない。また、そういう足踏みは多くの場合、皆そろっていない し、どちらかというと、他人の音を聞かずに自分の音だけを確かめるためにやっ てるとしか思えないほどドカドカと大きい。他人の音が聞こえなければインター プレイなど論外。他人の音が邪魔なのならセッションになど来なければいいの だとさえ思う。  

 足を動かす事が主になってそのために発する音が乱れてしまう人たちも意外 と多い。足が主で音が後ならそれは本末転倒ではないか。  

 もちろん、すべての足踏みを否定しているわけではない。ここぞ!という時 の足踏みは予想外のノリを生み出すことができる。要は使い方なのだ。  

 パット・オコナー氏のフィドル・ワークショップを開いた時に、パットさん の足踏みに独特のノリを感じたので、パットさんは足踏みに合わせてフィドル を弾いているのか?フィドルに合わせて足踏みをしているのか?と質問したこ とがある。パットさんは少しの間考えてこう答えた。

 「同時だ」  

これは、当たり前の答えのようで実はすごい事言うてる! 

 楽器をする人も しない人も、実際に一定の足踏みをしながら何か簡単なメロディーでも口ずさ んでみてみぃ? 

 「同時だ」などと言い切れる境地がどれほどのものか是非と も想像して欲しい。ほとんど神業やろ?

<洲崎一彦:Irish pub field のおやじ・愛用のブズーキの調子が悪く現在修 理中なのですわ。ああ、ドーナルのブズーキが欲しい!>                  

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2005年1月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ 2004年のアイリッシュ音楽ベスト体験

■ field 洲崎一彦

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 毎年年頭恒例のお題ながら、このベスト体験というのはいつもとても難しい。 何か派手な体験をベストと称するのが説得力を持つのかなとは思うが、今回は 少々思う所がある。というのは、昨年は例年と違って、私の中でアイリッシュ 音楽に対する思考や姿勢に色々な変化が現れ、それが1年を通 じて起伏のある 1本のストーリーとして流れていたような気がするのだ。確かに少々デリケー トな話ではある。しかし、この2005年の年頭に、自分の中にまだ流れ続いてい るこのストーリーの源泉をたどり、再確認をする作業も悪くない。面 倒な内容 になるかもしれないが、しばしお付き合いいただきたいと思う。  私の現在の感覚から比較すると、一昨年頃の私のアイリッシュ音楽に対する 姿勢は非常に偏狭だったように思うのだ。いや、偏狭というのは結果 論であっ て、本当は「腰が引けていた」と言った方がいい。  

 私が初めてアイリッシュ音楽に触れてから時間だけはやけに過ぎてしまって いるけれど、ごく個人的な密やかな趣味という状態が随分長かったのだ。同好 の人達がこんなにも居るなんて全く知らずにアイリッシュパブを作った。する と、堰を切ったようにヒトが情報がドッと押し寄せて来た。アルタンやドーナ ル・ラニーやアンディ・アーバインやダービッシュ等々、CDでしか知らなかっ た人達もやって来た。CDでも聴いた事がなかったような(つまりただ知らな かっただけ)凄いミュージシャンも入れ替わりやって来た。これはビビるで!  腰も引ける!  何と言ってもこの音楽はアイルランドという外国の民謡だ。そんなアイルラ ンドから本物がぞくぞくとやって来ては目の前でとんでもないセッションを見 せつけて行く。勿論その場ではミーハー的に大感動している。けれど、私の密 やかな趣味は完膚無きまでに蹂躙された。もっと、ゆっくり……。少しづつで いいのに……。    

 私は、例に漏れず、学生時代はロックバンドごりごりの軽音族だった。就職 してジャズ界の端っこをちょっとかすめてから現在の自営業に落ち着いた。専 門教育を受けたわけではないけれど、音楽とのつき合いにはそれなりのストー リーを持っている種類の人間だと思う。色々なジャンルの音楽が好きになった し、実際に演奏に挑戦したものも少なくない。このストーリーの中では、アイ リッシュ音楽もまた、私にとって、それらの色々な音楽の中のひとつに過ぎな いはずだ。なのに、こんなに特別でこんなに恐ろしくこんなに腰が引けている!  

 この事実に気が付いたのが、ちょうど昨年、2004年の春前頃だったと思う。 きっかけは何だったのか?それがちっとも思い出せない。きっと、ひとつの何 かではなく、色々複合的な刺激が偶然重なったのだとは思う。ただ、その頃、 私が何に夢中になっていたかははっきりと記憶している。  

 私は一昨年にスタジオを作ってすぐにごく個人的興味でドラムスの練習を始 めていた。そして、半年が過ぎた頃に、それだけが目的のメンバーを集めて 「21世紀の精神異常者」という古いロックの名曲のドラムを叩く事に挑戦して いた。この曲は キング・クリムゾンという今では超メジャーなロックバンドが 1969年にデビューした時の名曲であり難曲でもある。  

 そう、こういう事に集中していたのだ。今だから白状するが、日常的なアイ リッシュ音楽のセッションにもあまり熱が入っていなかった。しかし、こうい う無謀な試みに四苦八苦している中で、ある日、アイリッシュ音楽がそれまで とは全く違うものに見えたのだ。それが、セッションの場での事か、誰かのラ イブの場だったか、定かには覚えていない。    

 アイリッシュ音楽がそれまでとは全く違うものに見えた、などと書いたが、 どんなものに見えたのか? 

 何か特別に変なものに見えたわけではない。むし ろ、その逆なのだ。当たり前の音楽に見えたのだ。つまり、それ以前が変だっ たということなのだ。腰が引けていたという表現が回りくどいなら、これはか の地の民謡なのだからある一定の所までしか私には立ち入る事が許されないと いうような半ば遠慮のような姿勢。そんなものがあったのだ。だから、当たり 前の音楽に見えた瞬間、私たちのセッションで垂れ流されている音楽が全くと んでもない騒音に聞こえて来てしまった。まさに「しまった!」でもある。  

 見えてしまうと、もうどうしようもないじゃないか! わが field で発せ られる音楽がこれでは困る。ヒジョーに困る。たとえ、アイルランドの音楽は そんなんじゃない!と言われようが、何と言われようが、自分が騒音だと感じ る音楽を自分の基地(field)から発する事には我慢ができないじゃないか! 

 自分はアイリッシュ音楽の事をほとんど何も知らない。でも、自分が心地よく 感じる音楽とそうでない音楽を感じ分ける感性は持っている。もし、本当のア イリッシュ音楽というものが、自分が実は心地よく感じる事が出来ないもので あるというのが答なら、それはそれで、堂々と自信を持って本当のアイリッ シュ音楽を排除しなければいけない。そんな危機感と使命感に駆られたのだ。  

 アイリッシュパブの経営者としてはコレではアカンのかもしれない。でも、 見えたものはどうしようもない。  

 それからと言うものの、私のアイリッシュ音楽に対する姿勢は豹変せざるを 得なかった。アイ研の若い連中の活動にもガミガミ口を出し、field の音楽が、 私自身が心地よしとする音楽力を獲得するべく突っ走った。まさに年末まで 突っ走った! しかし、目指すものに絶対の確信はなかったし自信もなかった。  

 そんな時、「よし、そのまま行け!」と、ポンと肩を押してもらったような そんな印象を持てた出来事があったのだ。これこそが、私の2004年のアイリッ シュ音楽ベスト体験である。  

 実に、4年振りにfieldにやって来たドーナル・ラニーのブズーキ・プレイ。 これである。彼の演奏はもはや私などが普通にイメージするアイリッシュ音楽 の枠を遙かに越えていて、柔軟かつ俊敏にして鋭利。とてつもない音楽力に溢 れたものだったのだ。  

 ここまで引っ張っておいて、結論は極めてありがちで申し訳ないが……私の 2004年の アイリッシュ音楽ベスト体験は、ドーナル・ラニーのセッションプ レイに触れた事であった。ちょっと悔しいけど……。

  <すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・今年もまた賛否両論のキワ キワを綱渡りしそうな気配濃厚〜な field の新年ですたい!>                  

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