2011年 8月

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■ field どたばたセッションの現場から

■  楽しむ力
■                          field 洲崎一彦
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 先日、久しぶりに昔の音楽仲間のライブを観に行った。彼はドラマーで、長く半公務員のような仕事に就きながらアフターファイブ・ミュージシャンを続けていた奴だ。それが、最近、2人目の子供ができてからはお仕事の演奏は控えて気の合う仲間達と気軽に演奏できるバンド活動を無理せずに続けているという。

 初めて見る彼のそのバンドは、確かに一目見て皆若くない。白髪混じりで頭のてっぺんがライトに照らされて地肌が光っているようなおじさんも混じっている(まるで、私なのだが)。その代わり、皆、若い頃は相当な活躍をしたのだろうなあと思えるほど見事な楽器の腕前なのであった。

 それも、若い子達のように必死に超絶テクニックを繰り出すような演奏は一切しない。皆、ニコニコ笑って完全に脱力して、リラックスしまくって、それでいてオイシイ所はビシビシ決めて来るような演奏をする。

 ギタリストは足を怪我したらしく椅子に座って演奏をしているのだが、ノリノリのアドリブのシーンでは危うくその椅子から落ちそうになるほどノッている。

 ドラマーは2〜3日前に左人差し指を突き指したということで、ぴょこんと立てたままこの指を一切使わずに軽くスネアをショットするのだが、それがいちいちオイシイ所に決まる。

 ボーカルの女性は、まあ言うなれば古いスタイルで、客席と会話をしながらあおってノセて行くソウル、ブルース系のスタイルなのだが、さすがに大人であって、そういう会話も歌への間もすべてが無理なく流れて行き、いざ、歌い出せば歌唱力はバツグン。

 要するに、たぶん、全員が持てる力の4割ぐらいで自分たちが楽しむことを主に演奏をしているということだと思う。自分たちが緊張するとお客さんはそれ以上に緊張する、自分達が楽しまないとお客さんは安心して楽しめない、と言うことを、全員、経験で熟知しているというような所なのだろう。

 ジャンルは、ソウル、ブルース系のポップなロックで、私は今では普段はもうあまり聴かないジャンルだったのだが、これが、本当にリラックスして楽しめたのだった。このライブに来た目的の半分以上は、久しぶりの旧友とステージ後に飲む方だったのだが、思わず、本編のライブも大いに楽しんでしまった。

 同じくこのライブ会場に居合わせた同時代の音楽仲間は、アイツはもっと凄い音楽が出来る奴なのに! もっと本気の演奏が観たかった、と言った。

 しかし、私は、このおじさん達が必死こいてそんな凄い演奏をしたら、それはもう観てるほうが疲れるで〜と思わず反論してしまった。

 前回、ここに書いた、ある日急に自分自身の問題に焦り始めて、長年続けたアイ研練習会を放り出してしまった、というお話。
 
 その自分自身の問題ということの内容については前回も少し書いたが、結局、私はこの旧友のバンドの皆さんのように、もっと、リラックスして音楽を楽しみたいのかもしれないと痛感した。

 結局、field のスザキはアイリッシュ・ミュージックには一家言ある難しい人や、なんて印象を、外部に向かってまき散らしていては、ああいう境地で音楽を楽しむ事はできないのではないか?!

 と、まあ、そんな事を考えながら、先日、4〜5年振りに自分の店で私が出たライブにお客さんが1人しか来なかった事実を思い出しつつ、この時のデュオの相手であったにんじんトモコちゃんに心の中で深くお詫びをするのだった。

 <すざき・かずひこ:気が付くと、まわりの人々が自分の外側を作ってしまって、知らない間にその外側に合わせて内部が形成されてしまう。>

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2011年 6月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ アイ研練習会の休会
■                          field 洲崎一彦
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 さてさて、長年に渡って、このクラン・コラ誌上でも触れて来た「アイ研練習会」。2006年2月から始めたので丸5年続けて来たことになるのですが、今年の4月半ばを持って突然休会にしました。

 「やめた」のには、いろいろな理由とタイミングが重なったのですが、当初の目的だった、
 「アイルランド・ダンス音楽の独特のリズムを研究する」
というものが年月を経て、次第に、

1. いや待て、この問題はアイルランド音楽に限らない話ではないか?
2. そもそも、日本の音楽教育は「リズム」に関してすごく不親切ではないか?
3. 一般的に、「リズム」というものは大いに誤解されているのではないか?

 と、いう風にだんだんそのテーマが姿を変えて行って、3あたりになって来ると、もう、すでに中級者以上と自覚しているぐらい楽器経験のある人達が耳を貸してくれなくなってしまい・・・、

4. では、頭の柔らかい初心者の皆さんと一緒にこの問題を考えて行こうか?
5. ちょっと待って!初心者と言っても初めて楽器を触るという人にはいきなりこんな話はチンプンカンプンなのとちがうか?
6. はい。しょうがないから、では、みんなで、音楽に合わせて手を叩いてみましょう(練習会というより教室化の一途をたどる)。

 と、いう所にまで行ってしまって、知らない間にまわりにも「初心者講習会」として認知されるようになり、挙げ句の果てに、この春から参加者がどーんと激減したのでした。

 それで、これは惰性で続けても仕方がないぞ、ということにはたと気がついて、ここは、一回やめてみなければいけないと思い立ったのでした。

 もうひとつは、3あたりに到達した後に4に進むわけですが、楽器初心者諸君の先入観の少ない純粋な音楽感受性に色々なものを投げかけてみて、彼らのその時々の具体的なそれぞれの反応により見えて来た事柄が積み重なり、結果的に、おぼろげながらにも、独自のリズム論的なものが自然に形成されてしまっていた事に気がついたこと。

 つまり、このまま体系的な理論構築に進むべきか踏みとどまるべきか、という岐路にさしかかっていることに気がついて、急に、こんな一般的でない話が理論化されて楽器初心者諸君に向けて開示されてしまって本当に良いのだろうかという恐ろしさに急激に襲われたこと。

 そして、とどめとなったのが、自分の音楽への興味とエネルギーがほぼ無意識にこのリズム論の思索にどんどん突き進んで行ってしまっていて、いざ、自分が楽器を持って演奏するという具体的にクリエイティブな方向への作業をぷっつりとストップしてしまっていた事に気がついたこと。

 もう、トシもトシだし、このままボーっとしてたら、自分が再び音楽をクリエイトして楽しむなんてこと無く人生を終えてしまうのではないか、という猛烈な危機感に襲われたというわけです。

 理屈なんてどうでもいい! 自分は自分の思う方法で音楽をクリエイトして楽しみたい!

 50歳をとうに過ぎたおっさんが、目を輝かせてこんな事を言い出すのはわりと笑われるかもしれませんが、たぶん、もう、目は輝いていなかったと思うのでお許しください。

 そんなわけで、練習会は実は参加者達にも何の前触れもなく突然休止されたのでした。

 やめてみて2ヶ月が経過した。それで、今どうなのか?

 いやはや、練習会をやめてみても、加速度がついていたリズム論的方向への指向性は、そう簡単にぷつっと立ち消えるものではないですね。

 しかし、それだけに、練習会という空気孔がもはや無いというわけですから、これまでは、あまり、そういう話をぶつけて来なかった昔からの音楽仲間に向けてどうしてもそういう雰囲気のものが漏れ出てしまうことになるようです。

 それが、吉と出るか凶と出るかはちょっとしたバクチ性を伴った刺激ではあります。気がつくと、昔からの音楽仲間を失ってしまうリスクも伴うのですけれども。

 と、まあ、こんな感慨にふけっていると、今頃、練習会のウワサを聞いた、とある大学の民族音楽系サークルの大学生君が、自分是非参加したいので、また、再開してくださいよー!などと言って来たのですね。

 あああああ〜。どうしようかな〜。

 <すざき・かずひこ:人生もすでに良くて2〜3割しか残されていないと見るべきだ。こうなったら、理屈こねてるヒマはないのだー!>

 

 

 

 

2011年 4月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ トラディショナル音楽
■                          field 洲崎一彦
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 さて、本誌読み物編が復活した。お休みしている間に震災があって、世の中の雰囲気が1月に「昨年のベスト体験」をここに書いた頃とは一変してしまった。未曾有の大災害下で、音楽やエンターテイメントは当初自粛の囲気が広がった。ジャンルを問わず来日ミュージシャンの公演中止が相次いだ。まさに、一時は音楽などやってる場合か!?という雰囲気に社会全体が包まれてしまった。

 今は、自粛ムードが広がり過ぎて経済活動を停滞させてはいけないという論調が活発になって来て、ここ京都ではほぼ自粛ムードは払拭されたと言っても良いが、震災直後のあの雰囲気の中で私はいろいろと考えてしまったのだ。

 確かにものすごく深刻な事態である。いくつもの街が一瞬のうちに消滅し、大勢の人が犠牲になり、行方不明者の捜索もままならない。また、多くの人がりぎりの環境で避難生活をしている。おまけに世界規模の原子力事故だ。こんな事態に直面した時に音楽が不謹慎に見えてしまうというのはいったいどういう心理なのだろうという素朴な疑問。

 というのは、世界にはお葬式の音楽というのもあるし、何よりもブルースはアメリカの黒人奴隷時代の哀歌だ。また、われらがアイルランド音楽も長く苦しい英国植民地時代の苦難なしには語れないものだろう。音楽そのものが不謹慎であるわけはないのだ。

 しかし、今この日本の雰囲気の中で、音楽やります、というと何となくお気楽に遊んでるような感じになってしまう。たとえば、プロミュージシャンは仕事なのだから誰の目から見ても明らかに遊んでいるわけではない。それでも、なんとなく浮ついた感じの印象が出てしまう。これは、何故なのか? 

 音楽というだけでそれは「遊び」にイメージされてしまうというのは、これはいったいどのような心理と仕組みになっているのだろうというシンプルな疑問。

 そこで、私は考えた。つまり、現在の日本には人々の生活に根ざした文化としての音楽そのものがもはや存在しないのではないか。今この日本にあるのは商業的レジャーとしての音楽でしかないのだ。 

 いや、生活文化としての音楽は事実としてはあるのだろう。しかし、それが自分たちの生活の一部であることが自覚されていない。とっくの昔に皆そういうアイデアをすっかり忘れてしまったということが起こっているのではないだろうか。

 しかし、このテーマは大きすぎてここでさらっと論じるには少し荷が重い。私の中でも何の分析も思考もまとまっていないので軽々しい意見を表明してし
まうのもはばかれるものがある。なので、ここでは、「日本における生活文化としての音楽とは?」という問題提起にとどめておきたいと思う。

 折しも震前日の3月10日に、当 field pub で、フランス、ブルターニュの蛇腹楽器奏者フィリップ・オリヴィエ氏のライブが行われた。
 私は正直言って彼のメインの音楽活動には疎かったが、彼のライブには非常に新鮮な感動があった。

 第一ステージは、プロジェクターで彼自身が編集した無声映画の動画が流れるのに合わせて、彼のメイン楽器であるバンドネオンの独奏によって即興演奏が奏でられる。

 その集中力と緊張感は表現とは何かという真に迫るもので、本来難解なはずのこの種の音楽には珍しく、そこに居た観客達もイチコロで彼の表世界に引きずり込まれた。

 そして、第二ステージでは、共演者の hatao 氏の奏でるフルートと共に彼はボタンアコーディオンに楽器を持ち替えて次から次へとブルターニュのダンス曲を演奏した。

 観客の同じブルターニュ出身のR君が率先して踊り出して他の観客も踊りの輪に加えて行く。ステージを見ると、第一ステージでは見られなかった終始ニコニコした笑顔でノリノリでダンス曲を弾き続けるオリヴィエ氏がいる。

 これは、たのしい・・・!

 私は、この、第一ステージと第二ステージのコントラストに完全に打ちのめされたのだった。

 シビアな表現行為と郷土のダンス音楽。1mm の狂いも許さないかのような緊張感から一気に解き放たれた満面の笑顔で床を踏みならしてボタンアコーディオンをまるで子供の玩具のように自由自在に扱うフィリップ氏。

 気がつくと、滅多にそういうことは無いのだが、特に自分の店では初めてのことだったのだが、R君が先頭を切るダンスの輪に私もつい飛び込んでしまって
いたのだった。

<すざき・かずひこ:フィリップ氏のその後のツアーはこの翌日に起こった震災の影響でそのほとんどが中止になって、彼はフランス政府の勧告に従って帰国された由。>

               *****

 

 

2011年 1月

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■ field どたばたセッションの現場から

■ 2010年、アイリッシュ音楽ベスト体験
■                          field 洲崎一彦
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 さて、年頭恒例の、昨年を振り返って、「2010のベスト体験」である。

 実は私は毎年のこの恒例お題にはいつも少し苦しんでいたのだが、今回は非常に話が早いのだった。なんと言っても昨年2010年は自分の店をアイリッシュパブにしてから丸10年、fieldアイルランド音楽研究会ができて丸10年という年であったからだ。1月のパブ10周年記念パーティには各方面から盛大な祝辞をいただき、その興奮を持って5月のfieldアイルランド音楽研究会設立10周年記念コンサートに挑んだのだった。
 なので、私の2010年のアイリッシュミュージック・ベスト体験は、fieldアイルランド音楽研究会設立10周年!という事実でキマリなのだ。

 ややもするとその実態が常に疑惑の的になっていたfieldアイ研。名目上であれ、そこに所属しているミュージシャン13ユニットを一堂に会してコンサートを行うなんて、普段ならほぼ不可能と思える事が現実になった。

 が、しかし、この時の様子は昨年の本誌上にすでにネッチョリを書いてしまったので、ここでは再び繰り返すことはしないが、あれから半年以上の時間が経過し、今この時点で振り返ってみるとまたいろいろと思い巡らせることも多い。

 実はこのイベントをやり終えた瞬間は、突然実体を現したfieldアイ研がこの勢いのまま突如猛烈な活動集団として盛り上がって行くか、あるいは、何かとんでもない勢いをつけて変質して行くか、どちらにしても、これをきっかっけに何か大きく変化して行くのであろうと期待もし、身構えもしていたのだった。

 しかし、実際には、嵐が過ぎればまた何事も無かったかのような元ののんびりした野原に戻ってしまった。いったいあれは何だったのだ? 今となっては夢を見ていたような気分なのも確かだ。

 それで、昨年のメインイベントだったこのfieldアイ研10周年という節目を振り返りつつ、fieldアイ研とはいったい何だったのか?という、10年間誰も正面から考えようともしなかったことをここでしばし考察してみようと思う。

 もう、色んな所で書いたり語ったりしていることだから、繰り返しになるが、fieldアイ研は1999年の1月には「fieldアイルランド音楽研究会」と言う名称のバンドだった。功刀丈弘、金子鉄心という今ではすっかりややこしいおっさん達を従え、最盛期は8人編成にまでふくれあがった、アイリッシュ・ミュージックを演奏するバンドだったのだ。

 そして、このバンドのメンバーを中心にやがてセッションが行われるようになるのだが、この8人がいつしか半分の人数になり、新たにこのセッションに集まる人間の中に、後のアイ研ぶちょー率いるバトルスティックスという5人編成の学生を中心としたアイリッシュミュージックバンドの面々がいた。そこに、飛騨高山〜アイルランド経由で横浜から京都に流れてきたアッシー氏の経験と知識が注ぎ込まれて、なんとなくひとつのまとまった空気が形作られて行ったのであった。

 バンドfieldアイ研の私達は元々セッションのセの字も知らなかったほどアイリッシュ・ミュージックに無知であって、音楽的にまとまった空気を作り維持するにはバンドを形成することぐらいしか方法を知らなかった。だからこれが結局8人にまでふくれあがったのだ。なので、初めはメンバーが欠落して行くバンドfieldアイ研とバトルスティックスを合体させた新しいバンドが出来そうになったこともあった。

 そんな時に、パブになった field のパーティーが開かれることにる。ここで、思い思いに2人とか3人とかのユニットを作って色んな人間の組み合わせで、バンドとも違う、セッションとも違う、勝手気ままな演奏をかなり適当にやってしまうライブパーティーが出現する。言ってしまえば、自分の店で自分たちが遊ぶパーティーという気軽さと無責任さがこんな形態を生んだのだが、以降、これがfieldパーティーの定型と化して行くのだった。

 その雰囲気は、バンドの引きこもった排他性もなく、と言って何かひとつのまとまりの空気があって、例えば、私らおっさん世代は過ぎ去った学生時代のクラブ活動の記憶をそこに投影させたし、一方で、当時そこにいた学生達は現に大学で民族音楽サークルを立ち上げたばかりだったりしたので、ここにいわゆる街のサークルをイメージすることは簡単だった。いわく、囲碁サークルとか山歩きサークルとか。

 そして、その頃一番大きな声でしゃべる人間=ぶちょー氏がこのサークルの初代部長となった。私らおっさん達は今で言うサークル活動のことを「クラブ活動」と称していた世代であるので、クラブの長と言えば自動的に「部長」だろうという簡単な発想である。

 では、名称をどうしよう? 色々むちゃくちゃな案も出たと記憶しているが、その頃ほぼ活動が不可能になって実質解散状態だったバンド、「fieldアイルランド音楽研究会」の名前をそのまま使うのでええんやないの? というぶちょー氏の鶴の一声で一瞬のうちに決定する。

 名称の前に部長がいた。私達はその後何年も、研究会なのに何故「部長」なのか?という矛盾に全く気付かずに過ごすことになるのだった。

 この、初代部長の立ち上がりの馬車馬のような活躍は凄かった。週2回のペースで繰り広げられるセッションでは毎回中央席に陣取った。集まる人間たちにメロディー楽器が不足して来ると本来ギターだった彼は瞬く間ににフィドルを弾きこなしてセッションを引っ張った。

 あるいは、街のイベントにエントリーして私達を鴨川河川敷の特設ステージに立たせ、あるいは、自らアイルランドはドニゴールにすっ飛んで行っては現地のパブセッションをカセットテープに収めて帰って来る。

 アッシー氏がもたらしたクレアやエニスのアイルランドの西部の音楽に加えて、ぶちょーのドニゴールは北方辺境の音楽であり、さしずめ私達はあたかもアイルランド全土の音楽を制覇したような気分になったものだ。

 また、アイ研を設立した直後に、fieldパブにあのアルタンがやって来て猛烈なセッションを繰り広げ、その4ヶ月後にはドーナル・ラニイとアンディー・アーバインがやって来るという超弩級の偶然が重なるのであったが、空気的にはこれもそれも実はすべてぶちょー氏が彼らを引っ張って来たかのような錯覚を起こさせるほどの、この時期のぶちょー氏のウルトラ存在感なのであった。

 そして、その後、ぶちょー氏は仕事の関係で京都市内ではあるが終電が無くなればクルマ移動を余儀なくされる少し遠方に転居する。また、この頃にはアッシー氏も既に大阪に転居していたことも手伝って、この2人のアイ研出現率がそれまでのような頻度を維持することができなくなる。

 ここから、アイ研という存在の危うさが徐々に浮き彫りになり始めるのだった。

 つまり、実質的な設立実動部隊の内、私ひとりが残されたのだ。そして、私はぶちょー氏のようなウルトラパワーも、あっしー氏のようなアイルランド教養もまったく持ち合わせていなかった。

 加えて、私はこのクラブのボックス(部室)的場所であるパブ側の人間であった。クラブ側の立場とボックス側の立場は実は具体的にはしばしば対立する。飲食注文もろくにしない部員に店の半分も占拠された日にはそれはもう直接的ににパブの営業妨害以外の何物でもないのである。

 故に、しばしば私の言動は、アイ研部員から見ると、一貫性のない少々ヒステリックなものになって行ったに違いないのだ。現に、一時期はセッションに集まる人間も激減した。私とあともう1人という時期がかなり長い間続いたこともあった。

 結局、この私の曖昧が、その後、あるいは現在にも続く、常にその実体がふわふわしているアイ研の存在感を生んで行くことになったのだと思う。

 そして、昨年のアイ研10周年イベント。そこには、ぶちょー氏とあっしー氏の姿があった! 私ら3人が顔を付き合わせている場面こそ何年ぶりか!というような光景が当たり前のようにそこにあった。

 つまり、ぶちょー氏あっしー氏の降臨によって、ふわふわアイ研はあの1日だけ強固に実体化したのだとは言えはしないか。

 これが、10年間をかけて形作られたfieldアイ研の存在の仕方なのではないか。つまり、普段はfieldパブという環境のまわりにふわふわと漂うボヤっとしたまとまり。しかし、一旦、いざ鎌倉!というような事態には必ず2人の「神」が降臨し、一致団結して蒙古襲来を迎え撃つ。

 2010の私のベスト体験は、この2人の「神」をいやがおうにも実感させられた崇高な宗教体験にも似た、近年まれに見る畏怖体験でもあったのだ。がーん。

<すざき・かずひこ:神は今走っているという・・・・>
                

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