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「アンサンブル練習会デモレッスン(月曜練習会)」  発足時ノート (2006年1月)



1、まず、この練習会で何をやろうと考えているかを説明します。

a)クランコラというメールマガジンがあって、私が去年1年ここに書いて来たことがあります。そこにはあくまで文章でしか書いてないから、それを、実際に演奏する、あるいは、楽器を練習する現場に生かせる事ができるか、という、少し実験的なことをします。

 どんなことかと言うと、アイリッシュ音楽における、「ビート」の問題と「アンサンブル」の問題です。「アンサンブル」は「合奏」のことです。

 この問題は元々は、ジャズなどの音楽で問題にされて来たものですが、それを、もっと広範囲に拡大解釈した考え方です。

 というわけで、この問題に関することは、音楽大学でも教えていないし、ジャズスクールでも教えていないと思います。だから、これを、アイ研内に限った「デモ・レッスン」という形で始めるのです。

 でも、私は、個人的に、これは非常に有意義なレッスンになるはずだと考えています。例えば、これまで「才能」で片づけられていたものが、努力すれば何とかなるものに変わります。逆に、「才能」に支えられていたものが全く価値の無いものになる場合もあります。そういう問題なのですが、これを、既に感覚で察知している人は、例えば初心者、経験者に関わりなく確かに存在すると思います。こういう人にしてみれば、何を当たり前の事言うてるねん、ということになると思います。

 まず、この考え方を皆さんに納得してもらわなければなりません。逆に言うと、これに納得できない人にはこの練習会は必要でないというよりも、その人の音楽には明らかに邪魔になります。

 だから、まず、この辺の説明を徹底的にします。ここで、ひとつでも疑問を残さないでください。疑問を残して進んでしまうと、後々、自分の音楽を壊す結果になるかもしれません。

 自分で判断できなくても、練習会をやりながら、この人にはムリにさせると、この人の音楽を壊してしまうと私が判断したら、個別に、そのように言うかもしれません。

 また、現在、他で、何か楽器を習っている人や、勉強している人も、そこで教わる事と全く逆のことを、ここではしなければならなくなるかもしれません。その覚悟をしてもらう為にも、今日の説明には疑問を残さないようにしてください。

 ただ、この中には、この考え方をを感覚で既につかんでいる人もいると思います。その人にとっても、もう分かっている事なので、この練習会は必要ないかもしれないし、または、自分の考え方を整理するのに役立ててもらうこともできると思います。

 

b)まず、皆さんがここに居るということは、少なくとも楽器がうまくなりたいのでしょう?
それは、具体的には、どうなりたいのか?

c)どういう演奏が「うまい」演奏で、どういう演奏が「へた」な演奏だと思うか?

e)何を「うまい」と思うか、つまり、何に感動するかは、人それぞれでいいのですが、音楽は一種の物理現象なので、これがこうなっている時にこういういう風に聞こえる、とか、そういう、しくみ、があるわけですね。だから、自分が、良いのと思うのは、音楽のこういう部分がこうなっている時だ、という事が分かれば、すごく便利ですよね。

 まず、入り口はこういう話からになります。

 

「ビート」について

c)まず、ここでは、音楽を「メロディ音楽」と「ビート音楽」に大別します。
 
d)何故、こんな風にわけるかを説明します。
 だいたい、従来の音楽教育と音楽を演奏するというイメージは「メロディ」重視です。リズムトレーニングもしますが、それは「正しくメロディを奏でるための」リズムトレーニングです。でも、実際の音楽はまた違ったプラスアルファの要素があって、その部分は、今までは「才能」とか「センス」とかの言葉でごまかされて誰もちゃんと説明しようとしなかったという問題があります。

e)では、何故この問題を誰も説明しなかったのかと言えば、この説明は確かに非常にデリケートで難しいのです。が、ここに、アイリッシュミュージックという非常に面白い構造を持った音楽を発見したことで、この部分の説明ができるかもしれないと思ったのです。

f)アイリッシュミュージックは何が面白いかと言えば、多くの民族音楽に共通する原始的な要素が、その後の発展(つまり、ジャズやロックや現在のポップスへの発展)した音楽に非常に関係が深い要素が凝縮されているかもしれないと思ったからです。

g)それは、何かと言うと、その後の音楽の発展の中で出てきた小編成バンド、つまり、今で言う、ドラムやベースがいてギターがいてというバンドが分業して表現している音楽の色々な要素を、アイリッシュは1本の短音(メロディ)楽器ですべてやってしまおうとします。楽器の別は関係ない。笛でもフィドルでも何でも、それが基本姿勢です。だから、元々、アイリッシュには伴奏は無かったし、今でも合奏というと各楽器が全く同じ旋律を奏でるユニゾン大会になります。ハモリなんて誰もしない。ギターや打楽器が入って来るのは、それは、その後の音楽からの影響だと思っていい。

 例えば、ジャズバンドやロックバンドでは、音楽の各要素をそれぞれの楽器がかなり完成された状態で分業しています。だから、例えば、ドラムとベースが一定のリズムを出してしまうと、その上に乗る他の楽器はいくら頑張ってもそのリズムに対抗するのに限界があります。こういう理由で、それぞれの各楽器はそれぞれのバンドでの役割によって大きくその練習方法も変わりますし、練習目的も変わってしまうのです。すると、このプラスアルファの部分も各楽器によって微妙に言い表し方も違ったものになり、各楽器毎の楽器操作方法の中で語るしか方法が無くなるので、なかなか触れられる機会が少ないのです。

 だから、アイリッシュ音楽は、この部分をトレーニングするのに、すごく便利なのです。

h)だったら、アイリッシュは「メロディー音楽」か、というと実は逆なのです。いわば、メロディー楽器1本で音楽の全要素、つまり、「リズム」「メロディ」「ハーモニー」の全てを出す必要があるわけなので、演奏する側は「どうやって、リズムとハーモニーを表現するか」という事が大きな課題になるわけです。

j)また、今ここで言うアイリッシュは、とりあえず、ダンスチューンを指して言ってるので、「これは、ダンスの為の音楽だ」ということになれば、メロディー楽器1本でどうやってダンスのリズムを出すか?というのが最大の課題になります。だから、アイリッシュは「リズム音楽」だと規定してもいいのかなと思うのです。

■ここで、この練習会で使う、用語の定義をします。これは、一般の定義とは少し違うかもしれないですが、ここでは非常に重要なのでよく把握してください。

「リズム」= これは、メロディを構成する各音の時間的タイミングを指します。
「メロディ」= これは、リズムというタイミングによって音の高さが変わる流れを指します。
「ハーモニー」= これは、複数の高さの違う音の響き方を指します。
「ビート」= 直訳すれば「拍」ですが、ここでは、音楽において、繰り返される拍動の質を決定する一定の規則性とします。「繰り返される」というのがポイントです「リズム」との違いを理解してください。
「拍」= これは、音楽における、その音楽が元々持っているであろう一定の拍動です。これは、必ずメトロノームのような一定の区切りを意味しますが、「ビート」はこの意味では必ずしも一定ではありませんが、例えば、何小節目か毎に一定です。「ビート」との違いを理解してください。

 
h)さて、先ほど、アイリッシュを「リズム音楽」だと言いましたが、上のような定義に従えば、アイリッシュは「ビート音楽」ということになります。何故ならば、ダンスは「ビート」に乗って身体を動かせるものだからです。

i)では、「メロディ音楽」とは何でしょうか? メロディを最大限に美しく奏でる事に目的を置く音楽です。その一番の代表が「クラシック音楽」です。例えば、クラシック音楽の奏者は「メロディを歌う」という表現をよくしますが、こういう表現はクラシック音楽以外では全く出てきません。
 逆に、「ビート音楽」の代表は何でしょう。今一番ポピュラーなのは「ヒップホップ」あるいは「ラップ」かもしれません。そういう音楽の現場では「グルーブ」しているか、していないか、という表現が良い演奏かどうかの言葉として使われますが、「グルーブ」などという言葉はクラシック音楽ではその概念すら無い人が多いでしょう。

 そして、これは、余談になりますが、世界中の音楽の中ではこのようなクラシック音楽の方が決定的に少数派なのです。世界の音楽は現に「ビート」の方向にどんどん発展しています。クラシック音楽でさえ、最前線の指揮者にはこの「ビート」概念はもはや不可欠になって来たというような話も聞きました。つまり、これから将来的に音楽を演奏するには、一部のクラシック音楽の演奏家以外は(オーケストラの楽団員、あるいは、時に指揮者にも従わなくていいソリストと言われる独奏者以外の人は)この「ビート」の概念なくして音楽を演奏することは不可能になるはずです。

j)「メロディを歌う」という表現は、なんとなくイメージできるかもしれません。でも、「グルーブ」って何?という人もいるかもしれません。
 「グルーブ」というのは、「ビート」が作り出す躍動感やうねりが魅力的な様を表す言葉です。余談ですが、古いジャズマンなどは同じ様な意味で「スイング」してる、とか、してない、とか言うことがあります。
ロックの人は「ノリ」がいいとか悪いとか言うことがあります。

k)ここで、「メロディを歌う」ことと、「グルーブ」することを、物理的に説明します。

<説明>

l) ここで、皆さん、思い出して欲しいのですが、(これから、新しい楽器を始める方もおられますが)、楽器を最初に練習する時に何をしましたか?
 まず、音を出す練習をして、次に、簡単なメロディを弾く練習をして、そのまま、色々なメロディを弾く練習。調を変えたメロディを弾く練習、と、まあ、メロディばかり練習して来たでしょう? 楽器の操作方法を覚えるには確かにそれしか無いのですが、音楽的にはメロディの練習しかしてないわけです。
 特に、アイリッシュを練習し始めた時は何をしましたか?とりあえず、新しい曲をたくさん覚える。そんな事の繰り返ししかしてませんよね。

 結局、みなさんは、音楽の内で「メロディ」の練習しかしてないのです。それで、アイリッシュという「ビート音楽」をしようとしているのです。

 ですから、ここでは、「ビート」の練習をするつもりです。そのためには、今まで「メロディー」を弾いて来た感覚を一旦壊さなければならないかもしれません。
 つまり、既に楽器をアル程度弾く人は、普段の練習方法を変える必要がありますし、これから、新しく楽器をやる人には、楽器の操作方法を覚えるのに、この「ビート」の問題を加味していかなければなりませんが、これを楽器毎に適切に始動できる人は少なくとも、この日本でアイリッシュをやっている人の中にはひとりもいません。それで、仕方がないので、私がアドバイスしますが、私はそれらの楽器が弾けませんので、各楽器の専門的な技術に関わる部分には、すでにその楽器を弾いている中級者の皆さんの「通訳」を使う事があるかもしれません。
 

 

2、「アンサンブル」について
 次に、この練習会の2本目の柱となる、「アンサンブル」についてです。「アンサンブル」というのは合奏ですね。ここで、「合奏」について何か習った事がある人はそれを教えてください。

a)合奏の最重要点は「合わせる」ということです。では、具体的に何を合わせるのでしょう?

b)まず、チューニングを合わせなければなりませんね。で、最終的には「ビート」を合わせるのです。私とあなたの「ビート」を合わせるのです。演奏者にとって「ビート」は個人的なものです。身体の中に生まれるものです。放っておけば、他人の「ビート」には合いません。でも、これが合うという事が起こる時、各々のビートはひとりで持っている時よりも増幅されます。これが、「ビート」の面から見た合奏の効果です。

 しかし、一足飛びにそこまで行けない場合はまず「拍」を合わせ、「リズム」を合わせてからという段階を踏みます。

c)合わせるというのは具体的に何をする作業でしょう?

d)例えば、いつもしている、あのセッションは、いわば複数人のアンサンブルですが、あれは「合って」いますか?
 チューニングも拍もリズムもバラバラですね。まして、ビートなんて生まれようがない悲惨な状況です。

e)「合わせる」という行為の第一段階は、一緒に演奏する人の音を「聴く」という事です。この時の「聴く」というやりかたには、実際にはいろいろなやりかたがあるし、また、2人の人が「聴いてますよ」と言っても、多くの場合、この2人は「違う」聴き方をしています。

f)そこで、ここでは、聴き方を以下のように分類します。
 1「すごくよく聴く」
 2「よく聴く」
 3「少し聴く」
 4「あまり聴かない」
 5「全く聴かない」

 1の「すごくよく聴く」の状態では、相手が一定の演奏を保っている限り常にこちらが「追いかけている」感じになります。この時のサウンドは相手の音より自分の音が常に少し送れています。
 この時に相手も、この5種類のどれかで、こっちを聴いていますね。で、この時もし、相手も「すごく良く聴く」状態ならどうなると思いますか? 全体のサウンドのテンポが徐々に落ちて来て、いわゆるもたっている状態になります。

 5の「全く聴かない」の状態では、相手が一定の演奏を保っている限り常にちとらが「追いかけられている」感じになります。
 この時の相手がもし「すごく良く聴く」状態ならどうなると思いますか? 「追いかけられている」感じがどんどん強くなり、こちらはさらに逃げる状態になって、全体のサウンドのテンポが徐々に上がって、いわゆる走っている状態になります。

 これらの、極端な状態を避けるために、双方は「よく聴く」「少し聴く」「あまり聴かない」の3種類の聴き方を瞬時に調節する必要があります。

g)ヒント:ほど良く聴き合って、ぴったりと「ビート」が合った瞬間は、相手の音が「フッ」と消えたように感じる事があります。この時のサウンドは、いわゆる「グルーブ」を伴う非常に心地よい音になっているはずです。

 
 以上、のような事を駆使して、アイリッシュを題材に練習をして行こうと思います。

 それでは、まず、ビートというものを感じてもらいたいと思います。理屈ではなくまずは体で感じなければなりません。

・ビートの体感
 これらは、ポピュラーミュージックにおいての最も整理された分かりやすい例です。しかし、ここに於ける、8ビート、16ビート、4ビートというビートは、これをこのまま使うのでなくても、これを感じる感じ方はどんな「ビート音楽」を演奏する時にも必要なものです。

・アイリッシュにおけるビート感の例、ゲイヴィン、ヘイズ

・足踏みのこと(セッションなどでクセになっている人、あるいは体を動かすクセがない人9

・実際にどういう練習をするか(笛類、フィドル、伴奏楽器、打楽器、他の楽器)

・ビートの基本はフットワーク

 

・アイリッシュにおける合う合わない

・合わせる練習は実際にどういう練習をするか?

・感想文(宿題)
 


参考 

クランコラ 2006年1月の記事より
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■ field どたばたセッションの現場から

■ アイリッシュは恐るべき音楽である
■                          field 洲崎一彦
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 さて、『クランコラ』恒例の年頭テーマ、「昨年のベスト音楽体験」です。

 ああ、またこの季節がやって来たのだなー、と言う感じだ。この何年か、『クランコラ』のこのコーナーで確かに前年の自分の音楽的刺激を振り返るのが習慣のようになってしまっている。結果、知らぬ間に、この作業が自分の音楽生活の新年の指針に少なからず影響を与えていうような気がするので、思いつきで書いてしまうのがなんとなく怖い。今年はそんな気分だ。

 確か、昨年のこのコーナーには、一昨年、2004年の自分のアイリッシュ・ミュージックへのスタンスの変化の兆しとドーナル・ラニーとのセッションによって得られた、そのことへの確信を書いた。

 そうなのだ、そんな事を書いたからだ。昨年、2005年の私の音楽生活は強力な一方向のベクトルに向かって突き進んでしまった! 上記の「スタンスの変化」は「ビート」というキイワードを得てさらに先鋭化した。アイリッシュ・ミュージックに向けられたはずの照準は、いつしか、アイリッシュ・ミュージックを補助線にして、かつて自分が通り過ぎてきたジャズやロックの再認識にも向かった。

 この場所で、ジャズやロックの事を書いても、お呼びでないかもしれない。しかし、ジャズやロックを目指す人たちにもアイリッシュ・ミュージックへの接近は音楽的に極めて有効である事が、私の中で確信になった。これが、私の「昨年のベスト音楽体験」であるとしても良いかも知れない。

 2005年の結論
・アイリッシュミュージックは恐るべき音楽である・

 この事には、少々説明がいる。やはり、アイリッシュ・ミュージックは民族音楽であり、民族音楽特有の原始的な側面が色濃く残っているはずなのだが、昨今のように多彩にアレンジされたアイリッシュ・ミュージックが一般化された中で、これをどこに見出すのか。あるいは、アイリッシュ・ミュージックは単なる素材であり、今やそれは完全にポップスと化してしまったと考えるべきなのか。

 一般的に、ある文化の原始性とは「整理されていない」傾向、いわゆる、そこにおける「無秩序」であり「混沌」である。「整理」とは、これまさに「アレンジ」である。

 原始の音楽を「整理」するということは「アレンジ」するという事だ。ここで、重要なのは、これは「整理」であって「改造」ではないという事。つまり、元あったモノから何も加えず何も捨てない、ただ、「整える」だけ。整理する前と後ではそのモノの構成要素はまったく同じだということなのだ。

 具体例を示そう。アイリッシュ・ミュージックにおける巧妙なアレンジ(整理済み)を施された音楽と言えば、誰もが思い浮かべるルナサ。あるいは、クールフィンなどの既にアイリッシュを逸脱したのではないかとも思わせるドーナル・ラニーの一連の仕事を思い浮かべてもいい。

 方や、フランキー・ゲイヴィンやケヴィン・バークのソロ・フィドル。これら両者を聴き比べてみよう。実はとんでもない共通点があるのだよん。

「フィドルが入っている」

 ちゃいますて!(吉本流突っ込み)

 答え、「躍動感が同じ」(訳:ノリが同じ)

 ルナサと言わずクールフィンと言わず、現在のポピュラーミュージック・バンドの一般的な楽器編成は、いわゆる、ドラム、ベース、ピアノ、ギターに主旋律を受け持つボーカルやサクソフォンやトランペット等を加えた5種類の楽器か、またはこの亜流で構成される。

 そして、この5種類の楽器のそれぞれの特性に沿って、音楽は、その色々な要素を分担して受け持ちつつ合奏されるわけだ。誰もが思い浮かべるように、ドラムはリズムを受け持ち、ベースは低音部を受け持つ、と言う風に。

 ルナサの演奏とフランキー・ゲイヴィンのソロフィドルが同じ躍動感だという事はどういうことか。これは、ルナサが音楽の各要素をそれぞれ複数の楽器が分担して担っている作業を、フランキー・ゲイヴィンは1本のフィドルで全部やっているという事を意味するのだ。

 えー? フィドルって単音楽器でしょ、出せても2音が精一杯の楽器でアンサンブルの全てをやってるって?! 何をいい加減な事を言ってるのか! と、お怒りの方もいらっしゃるでしょうが・・・やってるんですから仕方がない。

 じゃあ、和音はどうやって出すのよ? 

 はい、お答えします。和音って、和音を構成する全ての音が常にまったく同時に弾かれますか? 例えば、ギターならどんなに早く和音を弾いても、6弦から1弦までダウンストロークすると最初に弾かれる6弦と最後に弾かれる1弦が鳴るのに確実に時間差がありますね。もっと嫌らしい例がアルペジオ。アルペジオは和音なの? 旋律なの?楽譜を見るとどう見ても旋律。でも、音楽を聴く時は皆さんアルペジオを和音に感じているはず。

 人間の耳は、音を記憶します。例えば、ある音の記憶の上に違う音がやって来たら、脳はこの2音の響き(同時に鳴った場合)をシミュレーションしてしまうのです。つまり、心地よいメロディーとは心地良い複数の音の響きであり、それが、一定の時間差によって次々にやって来るという妙味なのです。そして、この時の一定の時間差こそがリズムだとすれば、音楽の三要素と言われる「リズム」「メロディー(旋律)」「ハーモニー(和音)」は普通イメージされているよりももっと渾然一体となったものであることが分かるはず。

 アイリッシュ・フィドルのソロ演奏でしばしば用いられる「ロール」や「カット」などの装飾音は、リズムの「こぶし」、つまり、その曲の「ビート」が持つうねりを演出するためのものでもあり、また同時に、主旋律の流れに最低限の響き(和音)を連想させるためのものでもある。

 つまり、1本のフィドルが、ドラムでありベースでありギターでありピアノでありボーカルであることは充分可能なのだ。

 アイリッシュ・ミュージック、特にダンスチューンの合奏が何故ああまで執拗なユニゾン(同旋律複数同時演奏)の応酬なのか? 何故、少し前(ほんの30年ぐらい昔ですか)までアイリッシュ・ミュージックには「伴奏」という概念が無かったのか?

 それぞれの楽器が音楽の全ての要素を表現し得るのだとすれば、必然的にこうなるのは当たり前。1本の楽器で完結しているのだから分業なんて面倒なことをする必要はどこにも無い。えいや!で、みんな一緒に演奏すればしまいじゃ!

 これはこれは、恐るべき音楽ですね。専門教育を受けた人ほど騙されたような気分になるでしょう。

 そして、もうひとつ。この、ユニゾン大会は確かにそのとおり。「音楽の全ての要素」などと言うのは本当は真っ赤なウソで、実際にはハーモニー要素があまりに弱い。それは、この音楽において、この要素が特にそれ以上要求されなかったという証拠なわけで、実際、ダンスチューンはダンスの為の音楽なのだから当然も当然。アイリッシュ・ミュージックは正真正銘、「ビート」ミュージック以外の何者でもない。

 さて、ポピュラーミュージックのバンド編成というものは、そんなに歴史の古いものではない。上に挙げた「ドラム」「ベース」「ピアノ」「ギター」は、ジャズで言う所の「4リズム」というバンドの基本形だ。

 色々な楽器を持ち寄って好き勝手に演奏されていた古きジャズは、ニューオリンズの黒人ブラスバンドから発生してビッグバンド・オーケストラの方向へ行くが、さらに時を下ると、コンボと呼ばれる、小編成楽団の可能性を追求する方向の流れの中で、「モダンジャズ」が花開く。ここ、5〜60年ぐらいの話である。

 コンボの発想をさらに洗練させて、もっと必要最小限への試みの上に極限の緊張感を求めた「トリオ」や「デュオ」へのトライは「モダン・ジャズ」を、より前衛的実験音楽へと駆り立て、即興演奏の可能性を革命的に押し広げた「ハード・バップ」や「モード理論」、さらに無秩序の「フリー・ジャズ」へと発散する。

 そして、「4リズム」の発想から、やがて、お馴染みのロック・バンド形態が派生して、従来はすべてオーケストラで伴奏されていた流行歌までもが、いわゆるこの「4リズム」を基礎とするバンド形態での伴奏に置き代わっていった果てに、現在のポップスがあるのだと考えていい。

 ここで、モダンジャズ・コンボが「トリオ」や「デュオ」に突き詰められて行った過程に注目してみたいのだ。

 この流れでは、だんだん楽器編成が少なくなって来る。普通に考えると、ひとつの音楽を応用発展させる手段としては、その楽器編成が増えて行っても良さそうなものだ。それが、発展させれば楽器が減って行くとはどういう事だ。

 それまでは、ジャズ独自の即興性が主に主旋律に求められたのに対して、同時演奏中の楽器同士のイーブンな即時応答性により主旋律のみならず音楽のあらゆる要素での即興(インタープレイ)が模索されたのが、その理由だ。なるべく、必要最小限の楽器数から始めないと、このような大胆なトライは不可能である。

 また、これは、ひとつの楽器が受け持つ表現分担量を増やすということに他ならない。この試みのためには、ひとつの楽器の演奏技術はとことん高められなければならない。

 それでは、こうして、演奏技術が高められた各楽器を、ずらっと「4リズム」プラス、アルファ編成に戻してみましょうか?と考える悪戯っぽい人間が出て来てもおかしくない。

 そうすると、もう、それは、従来の4ビート・スイングの枠には納まる事など到底できない。気が付けば、ロックやラテンのイディオムをふんだんに取り入れ、なおかつ、4ビート・スイングのビート感をも保持した「16ビート・フュージョン」が出現するのは当然の帰着だったと言える(実際にはマイルス・デイビスのバンドがクロスオーヴァー/フュージョンの出発点だと言われているが)。

1.ジャズがこのような、楽器編成を縮小させる形で先鋭化発展を遂げた理由は何か?
2.ジャズの代名詞のように語られるアドリブという奏法を支えていた規範はいったい何にあったのか(アドリブという即興演奏に何らかの規範が存在しなかったら、それは限りなく騒音に近づく= 前衛フリージャズはこの規範をも否定しようとした)?
3.クラシックの前衛音楽では、遂にこのアドリブという概念が実験音楽以上に発展しなかったのは何故か?

 これらに、共通の答え。それが「ビート」である。

 ここでの「ビート」の定義は以下のとおり。

 「ビート」は音楽において、繰り返される拍動の質を決定する一定の規則性である。ジャズではこれは一般に「スイング」や「4ビート」と称されるものであり、小編成ジャズ・コンボはこの「ビート」を拠り所に、それまでのアドリブという主旋律における即興演奏の概念を越えて、演奏者相互が瞬時に反応し合う即興性であるインタープレイの試みを可能とした。

 また、「ビート」は、「メロディ」の流れを決定する各音の時間変化を意味する所の「リズム」とは明確に峻別して意識されなばならない。例えば、「メロディ」を「歌う」と称される行為には「ビート」の概念は一切関わらない。従って、「ビート」に規範を置くジャズに於けるアドリブ演奏は厳密な意味での「メロディ」とは別質のものであり、「メロディ」を「歌う」クラシックの前衛行為から出発する即興演奏は、本質的に、ジャズのアドリブ演奏と同質のものにはなり得ない。

 従来のクラシック音楽を代表とする普通に連想される音楽のイメージを「メロディ音楽」と称すれば、こちらは、さしずめ「ビート音楽」と称してカテゴライズしてしまっても良いと思う。

 ジャズがアフリカ音楽の派生であるという一般的理解から、ジャズが「ビート音楽」だと言うのは皆納得できるイメージだろう。

 しかし、アイリッシュ・ミュージックもまた、ダンスを伴う強力な「ビート音楽」であることを忘れてはならない。

 「ビート」を規範として最低限の抑制環境を作り出すことで可能となったジャズにおけるアドリブ演奏。これと全く同じメカニズムで、フランキー・ゲイヴィンは「ビート」を規範として1本のフィドルだけでバンドアンサンブルと同様の躍動感を表現したのだ。(フランキー氏自身が意識するしないに関わらず)。
 
 つまりはですね、

 ロックやジャズを目指すバンド少年たちよ! どないしたらワシらのバンドは上手になるんや〜と悩んでいるボンクラたちよ! ドラムの兄ちゃんもベースのお姉ちゃんも! みんな、黙ってアイリッシュを聴くのだ!

 1本のフィドル演奏の中に、君らの吸収すべき全て、あるいは、それ以上のものがぎっしり詰まっているのだから!

 最後に、現在の世界中の音楽という音楽は、皆ことごとく、現在進行形で、雪崩をうって「ビート音楽」化しているのではないか、という私見を付け加えておく。

<すざき・かずひこ:Irish pub field のおやじ・本年より「ビート」をテーマにアンサンブル練習会を始めるよん!>

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